信じて行動することから変化は始まる
今回は、2023年の最後の投稿になるので、僭越ながら本マガジンの筆者、古澤の動作学体験を共有させてください。
前にも少し書いたかもしれませんが、私は幼い頃から謎の生きづらさを感じていて、人生とは何か、生きることにどんな意味があるのか、10代の頃から熱心に探求してきました。
心理学、哲学、宗教学、ニューエイジやスピリチュアル、伝統医療、脳科学…学ぶことはとても楽しくて、そのうち一般向けに書かれた書籍であれば「わかる!知ってる!」と思うことも増えてきました。
それと比例するように、生きづらさも軽くなっていったのですが、どこか満たされない感覚は消えません。もちろん満たされて幸せを感じる時間も多いのですが、ふとした時になんか足りないという気持ちが出てくる…それで困ることはなかったけれど、満たされた気持ちが持続することは可能なはずだと、これまで学んだきた知識を通じて信じてもいたので、それを体験をしてみたいと願っていました。でも、学んでも学んでもその体験はできませんでした。
ところが、動作学を知って実践して4年が経った今、気づけば、満たされた気持ちを感じているのがデフォルトになった自分がいます。
そんなふうに変われたのはもちろん動作学だけが理由ではないでしょうが、それでも動作学は大きかったなぁとしみじみ思うんです。
なぜ、それまでは起きなかった変化が、動作学では起きたのでしょうか?
信じられたおかげで行動できるようになった
動作学以前に学んできたことに共通している考えに、「考えすぎないで感じることを大事にしよう」「直感に従おう」「自分のどんな感情も受け入れよう」というものがありました。
いろんなところでその考えを見聞きしたこともあったし、それこそ直感的に「きっとこれらは真理だ」と感じてもいました。
だけど、その考えを実践してみることができていませんでした。
というのも、「考えすぎないで感じることを大事にしよう」「直感に従おう」「自分のどんな感情も受け入れよう」という言葉が本質的に何を言わんとしているのかイマイチ掴みきれていなかったし、なぜそれらが大事なのか、理屈がわからなかったから、信じきれなかったんですね。
「直感に従っていたら、時に非常識なことをすることになる。それは自己中なのでは?」
「自分のどんな感情も受け入れるって、自分の嫌な部分も肯定したいっていう甘えでは?」
そんなふうに思う自分が強かったんですね。
ところが動作学は、「考えすぎないで感じることを大事にしよう」「直感に従おう」「自分のどんな感情も受け入れよう」ということを、信じていいのだ、と思わせてくれました。
表現こそ異なりますが、動作学もおおむね同じようなことを言っている、けれど、動作学ではいのちのシステムが持っている仕組みとして見るので、それらの言葉が言わんとしているのが本質的にどういうことなのか、実践することがなぜ大事なのか、理屈で理解できて、理屈で理解できたから信じられて、信じられたから実践することができるようになったんです。
変化するためには実践、つまり実際に動いてインプット情報を変えて神経ネットワークを変えていくことが必要不可欠です。
そういう意味では実際に動くことが重要であって、理屈がどうとか、信じられる云々は二の次と言えますが、私にとっては動くことにどんな意味があってその結果として何を目指しているのかを理屈で整理できたことが、信じて動く動機になったのでした。
変化するために動けるようになった
前述したように、変化するためには実践、つまり実際に動いてインプット情報を変えて神経ネットワークを変えていくことが必要不可欠です。
この場合の動くというのは、運動するということに限らないし、とにかく動けばいい、ということでもありません。
ポイントは「インプット情報を変えて神経ネットワークを変えていく」こと。そのためになんらかの行動を起こそう、ということ。
動作学以前の私が、どれだけ知識を仕入れても変われなかったのは、その知識を信じて実践しなかったから、つまり行動を起こさなかったからなのですが、厳密に言うと当時の自分はめちゃくちゃ行動しているつもりだったんです。
それこそ学ぶために本を読んだり、ワークショップやセミナーに参加したり、ヨガをしたり瞑想をしたり。
ただ自分の行動のわりには感じ取れる変化は少なかったというか、行動をした直後は気分が整うというような変化は感じられてもその状態は続かなくて、しばらくすると何かが満たされない気持ちが浮上してきて、「なんで?」って思っていたんです。
今になってわかるのは、似たようなインプットをするような行動しかしていなかったということ。
でも、動くことが必要なのは、インプット情報を変えて、神経ネットワークを変えて、自分から出てくるアウトプットを変えるためなんです。
そのためにはインプットの量と質を変えるような行動をするということが大事。
そこを理解したことで、ただ動くだけじゃなく、インプット情報を変えるという視点から動くことができるようになったんです。
思えば、私自身の変化が面白いように加速したのはそこからでした。
動作学のレンズが自分の一部のように定着してきた今、この世界のすべてが大なり小なり相互に作用して影響しあって繋がっているということが確かな手応えを持って感じられるようになりました。
それは皆が共に世界を創造する仲間である世界。敵は存在しない世界。
以前の自分だったら「現実味のない理想論」と一蹴したような気もしますが、動作学のレンズで見ることに馴染むともうそうとしか見えない…そんなにも見え方が変わる日がやってきたことに自分自身が一番驚いているかもしれません。