見出し画像

好きなことだけやってちゃダメなのだ

かつてセロリが嫌いだったのに、今は好きになったという人は、どのくらいいるでしょうか。

私はその一人です。

自分らしく生きるというのは、自分の好き・嫌いに忠実に生きるとも言い変えられますが、セロリが嫌いだったのに好きになることがあるというふうに好き・嫌いは動的なものです。

過去の私は嫌いだった、けれど、今の私は好きかもしれない。

そんなふうに自分の好き•嫌いを疑い、嫌いなものを好きになる可能性があることに気づけている人が、変化をしていける人なのだと思います。

って、自分に向かって書いています。

私はここのところ、自分で書いている文章に、自分でしっくりきていませんでした。

監修者である川尻にもそのことは伝えていて、意図的な試行錯誤をしていました。

が、ここへきて、私は気づいてしまいました。

私には圧倒的にインプットが足りていない!

何を出すにも入れるものは多いほどいい

私はマルクスの資本論を読んだことがなければ、ベートーベンの第九は実は70分もある交響曲だということも知らず、コンサートはおろかなんらかの音源で通しで聞いたことさえありません。

死ぬまでに見たい絶景の一つと称されるウユニ湖に身を置いたこともなければ、アメリカに住んでいるのにアメリカの国立公園は3つくらいしか訪れたことがありません。

それの何がこのマガジンに関係するのか。

いやいや、関係大ありです。

だって、私がやることはどこまでいっても私のアウトプットでしかないから。

私のアウトプットを豊かにしたいなら、私のインプットを豊かにするしかないのです。

いや、動作学的にはインプットだけではなくて、プロセスを見直すっていうのも大事なのですが、それはまた別の原稿が書けちゃうので今回ははしょります。

とにかく、インプットが足りていないことに気づいた私は、前回このような投稿を書きました。

これは嘘偽りない本当の気持ちで、今の私は「好きなことだけやってちゃダメなのよ」と自分を叱咤激励しています。

好きなことだけに行動範囲を限定すると、インプットの視点が増えないのよ!

好き・嫌いは変わるものだという前提で

「好きなことだけやってちゃダメだ」というと、なんだか、これまで動作学で言ってきたことと違っちゃうようですが、それだからこそ冒頭のお話なのです。

好き・嫌いに従うのは何よりも大事なのだけど、好きと思っているだけ、嫌いと思っているだけ、ということがとんでもなく多いんです。

なんでそう思っているかというと、過去の経験からっていう場合もあるのですが、過去に食べてまずかったセロリが今はおいしく感じるということもあるわけで、つまり、今の自分がそれを好きか嫌いかは試してみないとわからないんですよ。

なのに、過去の経験や、もしかしたら経験さえないのに勝手なイメージで、「あんまり好きじゃない。ピンとこない」と、トライもしなかったら、今の自分がそれを好きか嫌いかはわからない。

そして、トライもしないから、インプットも変わらない。

その状態で試行錯誤しても、まあ、アウトプットにそんなに変化は起きません。

だから、私はこのマガジンの原稿で暗中模索だったんだって、そんなふうに気がついたんです。

で、なぜ気づけたかというと、これまでだったら毛嫌いしていたタイプの本を読んだからなんですね。

ここでは本の名前は伏せますが、私は自分がライターとして25年くらい食べてきたという自負があるから、文章の書き方を書いた本というのは毛穴が逆立つくらい苦手なんです。

でも、アウトプットを変えたい一心で、切羽詰まった、いや、藁にもすがる思いで、毛穴を逆立てながら読んだのです。

好きじゃない本に手を出すということをやったために、私はストレスからチョコレートを爆食いしてしまいましたが、動作学を学んでいてよかったと思うのは、こういうとき、「しめしめ、私の生命のシステムが揺らいでおる。揺らげ、揺らげ、強くなれ」と己の生命のシステムとの対話を楽しめるようになったことです。

そして結果的にその本は好きな本でした。

私は、自分に足りていないことを指摘されるのが嫌で、その手の本を避けてただけだったわ。

私だって知っている、できている、って思いたかっただけだったわ。



読み終えた今、私の生命のシステムは、これまで読んでいなかったような古典的な名著と呼ばれる本を読めと訴えてきているので、しばらくはそこに取り組むことにします。

おすすめの名著があったら、ぜひ教えてください!