"思い出とは、持っているものなのだろうか、失ったものなのだろうか。"

「思い出とは、持っているものなのだろうか、失ったものなのだろうか。」ウディの命題がある。
この模範解答は、持っているものであり、失ったものでもある。しかし、私は、持っているものであると主張したい。

我々が本当に持っているものは思い出だけだ。なぜなら、持っているということは、それが在り続けることではなく、所有という行為、状態に重要なのはむしろ、その間欠性にあるからだ。

プラトンは状態、事態、行為の本質を変化だと主張した。分かりやすくいえば、万物流転の概念に近い。この概念の対偶をとれば、"流転しないものは、万物ではない"となる。
プラトンは、事態が生成され続けること、事態がその状態であり続けることは、もはやその事態ではありえないとした。

例えば、永遠の愛とは、その言表のうちに矛盾を抱える。永遠に愛するということは、愛するという事態が生成され続けることであると解するのならば、愛するという行為、愛しているという状態が能動的な変化を持ちえず、愛するという行為、愛しているという状態は不可能になる。
つまり、変化のためには間欠性は不可欠になる。しかし、行為に間欠性を認めると、永遠ではなくなる。

このことは無論、所有という行為にも敷行することができる。
所有する時間が一時間にせよ、一年にせよ、一生にせよ、恒久的な時間性が不可欠になる所有という行為に、時間性とともに在り続ける実体に、間欠性は認められない。例えば、本があるという事態、状態がたとえ五分間でも生成され続ける限り、在るという状態が在り続ける限り、所有は不可能だ。

では、時間性と実体から逃れうるものはなんであろうか。それこそが"思い出"である。思い出は、我々の意識の中にあって、かつて在った実体はない。思い出という断片は、脳という実体から生成されながらも、時間性を持たない。(過去という時間はない。)本を所有することは不可能でも、本を持っていたという思い出だけは所有することが出来る。

しかし、失ったものは思い出だけではない。我々が本当に喪失しているものは、どうしようもない時間性と、ありありとした実体、無用な鮮明さ、不要な奥行を孕んだ現実、つまり"今"である。今は今も喪失している。今を喪失するということは、時間性を李んだ実体、つまり所有していないもの、思い出以外は、全て喪失しているといえる。万物は流転する。一秒前の本は一秒前の本であり、今の本ではない。そしてまた今の本は一秒前の本となる。所有していると思っていた今の実体を、失い続けている。

思い出だけが、所有できる。思い出は、人間にとってほとんど全てだといえる。思い出を眺める行為、懐かしむという行為は、人生の一切を李む。また、生み出しうる。これだけを人生の意味とすることも出来る。人はこれに、希望と絶望を見る。
その点で、モーパッサンの「ある自殺者の手記」は極めて的を射ている。人はたびたび大きな絶望も悲劇もなく、むしろ大きな絶望と悲劇が無いことによって、提示された事態の少なさによって、無によって死ぬ。また、有であった、夢であったあの時を思い出すことも命を奪う。ぼうっと彼岸を眺めたとき、此岸の暗さと寒さに気付いてしまう。(最大にして、最も身近な絶望。)「ある自殺者」は、変化の乏しさに殺された。思い出という人類最大の神秘に殺された。しかし彼は、これを愛していた。人類は皆、これを愛さずにはいられない。
希望と絶望それ自体は、まして生死は、人類にとって大した意味を持たない。彼は、殺されたことをどうとも思わない。思えない。彼にとって重要なことではない。"彼は彼の死を経験できない。"(論考)
希望も絶望も生も、その状態が維持される限り、取るに足らない。死は完全な、純粋な、単なる終わりだ。いや、完壁に完全な終わりに形容詞をつけるのはまどろっこしい。死は終わりだ。取るに足らない。重大なのは死ではない。終わりではない。終わりがあるという事実である。その事実を内包した生である。

実証主義的に、私のほかに世界が存在すると考えること、私が終われば世界が終わると考えないことは、あまりにナンセンスであり、死を内包した生に対してあまりに不誠実である。"私以外"は、ヴィトゲンシュタイン的に語りえぬものであり、ハイデガー的に空談である。

我々はその本当の所有物を、適切に処理することができなければ滅ぶ。そのためには、時間性の意識、つまり今この瞬間への意識、各自の存在が各自のものであることの自覚、つまり世界が私の表象であることへの自覚、死への先駆的な覚悟が必要となる。

"何ごとにおいても、注目に値するのは始まりと終わりだけだ。両者はともに、自由の瞬間、つまり創造と解体であり、運動であり、存在への道にして存在から脱出する道である。ここに「生」があり、「自由」がある。だが、存在の状態は怪桔である。"-エミール・シオランー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?