ドストエフスキーと人間と倫理

ドストエフスキーの思想の根幹は、全てへの無意識的かつ無条件の肯定である。理論の放棄である。そして、それによる苦しみからの解放、つまり、幸福の希求である。

まず、ドストエフスキーは、元来の信仰者では決してない。ドストエフスキーの根底は、自我の人であった。この神と自我、信仰と現実、理論と実際、意識と無意識という対立構造は、ドストエフスキー作品においての基本建築である。
この2つを揺れ動く矛盾に満ちた存在こそが、彼の愛すべき人間であり、彼の作品の登場人物であり、当然彼自身でもある。

ドストエフスキーの思想を読み解くことにおいて重要な著作は、「地下室の手記」、「罪と罰」、「カラマーゾフの兄弟」であると私は考える。
まず、「地下室の手記」においては、自我と、意識と無意識、理論と実際の対立が語られる。強烈な自我を持って生まれた主人公は、地下室で20年間理論を捏ね回す。ここで登場する様々な理論は、ドストエフスキー自身が肯定的に捉えながらも、あまりの理屈っぽさに自嘲的な語り口を加えなければ語れなかったものであり、決して主人公を読者にバカにしてもらう意図で書かれたものではない。
しかし、これらの理論は、地下室という非現実的な机上でのみ有効であり、主人公が懐古する現実においては、衝動的なもの、感情的なもの、つまり無意識的なものが支配していた。(第2部)
この作品でドストエフスキーは理論の限界を説いた。

次に、「罪と罰」において語られたのは、「地下室の手記」と同様な対立構造と、愛と信仰、無意識の素晴らしさである。ソーニャによるラスコーリニコフの改心は、諦観にも似た、無意識である。理論や打算を超えた愛に触れたラスコーリニコフは信仰する。
この作品でドストエフスキーは、神は虚妄から生まれるものではなく、限界を向かえた理論の先にあるものだと説いた。

最後に、「カラマーゾフの兄弟」において語られたのは、全てに対する肯定である。小説というものが誕生して以来、後にも先にもこれが世界最高傑作である。未だに革命的である。アリョーシャという人間の発明それ自体が革命であった。
ここがドストエフスキーの究極である。それはある言葉で簡潔に締めくくられる。


今日、ドストエフスキーが分割した、信仰と自我の対立構造は、崩れつつある。なぜなら、信仰せず、自我をも否定する立場の人類が生まれたからだ。科学は、現代は、神を、自我をも拒絶する人類を生み出した。それが実証主義者であり、科学者であり、広く、理論家である。具体的にあげられるのは、アンチナタリズムとヴィーガニズムである。これらは理論において100%正しい。

最も重要なのは苦痛がないことだ。その考えに起因する思想として、アンチナタリズムとヴィーガニズムがある。その両方に共通するのは、命そのものを重要視しない点である。
命は素晴らしいとする思想は、信仰である。少なくとも、理論的ではない。素晴らしいのは苦痛がない状態である。このことが信仰でないという根拠は、私たちがそれぞれ経験的に持つ。苦痛が良いとされうるのは、苦痛から逃れえた瞬間と、それを回顧した瞬間である。それは苦痛それ自体の肯定には一切ならない。
生きているのが苦痛であるのに、死にたいのに、それが可能であるのに、それでも生きていくことを他人が他人に強要したがるのは、つまり安楽死と尊厳死に反対したがるのは、この信仰のためである。
アンチナタリズムに関して、最も重要な苦痛のない状態が、最も長く、最も理想的なかたちで経験される場が存在しないという状態である。そのため生誕を恨み、新たな命を拒む。
ヴィーガニズムに関して、最も重要な苦痛のない状態が、他の動物についてもいえる時、菜食主義になる。ここで植物にも命があるという、いわゆるPlants thoという議論は、明確に否定される。先述のように、ヴィーガニズムは命を大切にする思想ではなく、生物全体において苦痛を最小限にする思想である。意識を持たない植物に、苦痛はない。

ヴィーガンは、動物愛護を声高に主張する非ヴィーガンより理性的で(言葉を選ばずあえて表現するのであれば)正しい。ではなぜ理性的で正しい人間が否定されるのかというと、私たちがそうした信仰を捨て去ることがなかなか出来ないからである。たとえば、「いただきます」は宗教的な信仰である。言葉の意味を解せない動物(それも死肉)や意識を初めから持たない植物に対して感謝を述べること、その場に同居しない生産者や屠殺者に感謝を述べることは、"ほとんど"無意味なことで、祈りとなにも変わらない。ここで、全く無意味であるといわないのは、祈りというものが、人間の自己満足と自己正当化に強い意味を持つからである。
つまり、「いただきます」は、他の動物を殺しているという事実に向き合うことで、他の動物を殺しているという事実とその可否について思考することから逃れるためにある。「いただきます」は悪でさえある。
それでも私たちは「いただきます」をいわないことができない。

ではなぜ私は、それらが正しいと知りながらそうしないのか。それはそうしたくないからだとしかいえない。全ての根本哲学、そうであるからだ。何ひとつ難しいことはない。生を憎んでいるあの時でさえ、呼吸し、酸素は循環し、鼓動はやまない。死を嫌う瞬間さえ、死への道程にある。私は、いただきますという言葉の真意に首を傾げながらいただきますを口にし、生物を屠殺することに首を傾げながら死肉を喰らい、生きているということに首を傾げながら生きていく。そう生まれた。そう生まれてしまった。そんな私は弱く、ちっぽけなのか。違う。私は、世界である。宇宙である。全てである。

なにがともあれ、"最善の解決策は常に最も単純な解決策である。"-W・オッカム-
死は終わりなだけではない。死は万事の解決だ。しかし、死は単純であるが、困難でもある。

なぜ生きるのかという問いが重要なものとなるには、接頭語が必要だ。辛いのに、なぜ生きるのか。苦しいのに、なぜ生きるのか。死にたいのに、なぜ生きるのか。
そしてその正しい解答は、死ねないからだ。そしてそれは、自分自身を納得させるだけの解答ではない。自分の不幸を納得させるだけの意義と意味を与えようとした時、つまり論理の限界と現実の臨界点をむかえたその時、神が生まれる。ここで、神を生み出せる人間は限られる。神を生み出せない人間が、つまり、信仰出来ない人間が、実証主義者になる。"考え疲れた時点で結論になる。"本当に考え疲れた人間に齎される結論は、信仰か、忘我、ニヒリズムしかありえない。
私は、未だ到達しない。考え疲れたが、自分自身がいま生きていることを納得させるだけの何かは見つからない。それがなにもないというニヒルな理屈では納得できなくなってきている。踠き続けるという役割しか与えられていないのかもしれない。

ドストエフスキーは、この罪と罰の総体に、地下室の傀儡に、カラマーゾフの眷属に、私に、それでもイエスと言う。これが芸術の正体である。肯定に、否定に、生誕に、生に、死に、存在に、人間に、世界に、私に、つまり全てに、Ура Карамазову!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?