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夏目漱石について書こうと思った。絶望について。

この世界における諸問題の究極は、死ねない、ということのみにある。問題の発生は生誕であり、問題の解決は死である。
今私が話した内容は、思想でも考え方でもない。事実だ。こういった不都合な事実をどう受け止めるかが思想であり、考え方である。

漱石はこれを知りながら、最後まで書き通した。ドストエフスキーと同じように、呪われていたのである。その著作の中で、「門」が最も絶望的だ。
なぜなら、例えば前期三部作のうち、「三四郎」は、単に愛別離苦の苦しみであり、死という考えにまで及ばない。
また、「それから」は、のっぴきならない、もういかようにもならない苦しみであり、完璧な失墜であるから、死ねる。「それから」をある種希望的な結末だと解釈する人間もいるが、そうした人たちは、生活の物憂さを知らない。息を吸って吐くことの苦しみを、心臓を動かすことの徒労を知らない。
一番絶望的なのは、生活の程よい物憂さ、漠然とした不安感、空腹に慣れ始めた瞬間、つまり、完璧に絶望的でないという最も絶望的な状況にある、「門」である。

「門」は、変化しない。到達しない。完了しない。「それから」や「こころ」の絶望は、増幅し、到達し、完了するエネルギーを持つ。しかし、「門」には春が訪れ、また冬が来る。そのだらしのない繰り返しを厭わなくなった時、停滞を不安がりながら、空虚に怯えながら、それにある程度まで、生活が可能な程度まで慣れてしまった時、人は、本当に終わる。
「門」に解放の兆しは一切ない。罪を贖うこともできなければ、罪を忘れて生きることもできない。まして罪それ自体を消してしまうこともできない。はたして罪人のままである。
裁きはついに起こらない。しかし、裁かれ続ける。

精神的な不具を持って生まれた人間には、これが外的状況の如何に関わらず起こる。
春の温かさは、冬の訪れを予感させる。外的要因が、惰性が、自己懐疑に飲み込まれる。繰り返しを不気味に思う。息を吸わなければと考え、吸う。吐かなければと考え、吐く。鼓動や血流に、疲れる。コップを握って、手の中の嘔吐感に苛まれる。手元の細長い芋虫を見て、鳥肌を立てる。秒針の動きに、不安を感じる。他人という存在を、根本的に恐れる。不条理に、絶えず憤る。
しかも、生きていくことが可能である。これが本当の絶望だ。

漱石は作家として自己本位を標榜したが、晩年の思想は則天去私であった。この漱石なりの東洋思想の萌芽は、精神衛生上のものであった。
まず自己本位とは、自己に付き従えられるほどに、自己に隷属できるほどに自己を確立した人間にのみ達成可能なものであるが、自己を確立できるだけの愚鈍さがなければ、達成は不可能である。
自己を確立できないである人は、経験不足でも、研鑽不足でもなく、ただ常に自己懐疑的なのである。ある程度理性的である人は、つまりある程度懐疑的である人は、自己に耐えられない。私は、"私"に耐えられない。(以前書いたように、ここから逃れうるのが信仰である。)
当然漱石もその種の人間であった。漱石は、自己のどうしようもない強靭さと激烈さ、そこに相反しながら付随する虚しさを悟ることにより、自己本位の不可能性に気がついた。
そこでまず漱石は、単なる精神衛生上の行為として、自己を放棄することを目指した。(ここで中絶)

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