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【幻想を装った真実とは】 「ガラスの動物園」「消えなさいローラ(和田琢磨「女」版)」2本立て

ガラスって壊れやすいのよ。いくら気をつけていたって、壊れる時には壊れるの

二本立てとは?と疑問符を残したまま当日になった。ご案内を見てびっくりした。


「ガラスの動物園」が一幕ものに!!!!

見終わってから、腑に落ちた。「ガラスの動物園」で描かれる「家族が壊れたあの夜のこと」と、後日譚との間の心と時間の距離がはっきり出るのだ。作家が違うし、書いた時期も違うということもあるけれど。

時の砂はこぼれ続け、人も思いも、埋めていく。後日、その砂に手を入れ、埋もれた心を探り当てる人がいるかどうかなんて、誰にも分からない。別役実の存在など、テネシーが知る由もないように。

探り当てて貰えたとて、それがどう解釈されるかも分からない。そんなあやふやな間柄であっても、人は誰かに声をかける。私はここよ、ここにいるのよ、と。呼びかけて貰えるから、存在できる。呼びかけてくれる人がいないと、人は存在できない。

呼びかけてくれる人が世界のどこかにきっといる、と信じて待っていられることで、存在を維持できる。

一人暮らしのフリーランスな身として、ずっと、うっすらと抱えている恐怖がある。腐乱死体になることだ。

呼びかけてくれる人がいなくなったら、そしてその間に自宅で何かがあったら、私は永久に発見されない。匂いに気づいた隣人が、何らかの手立てを講じるまでは。

その時、時の砂に埋もれた私は、いったい何を語りかけるだろう。せめて、自分にとっていちばんの思い出となった日の装いができていると良いのだけれど。

蝋燭を消してくれ

1幕ものとして上演された「ガラスの動物園」本編の方は、みな、欠点はあるけれども悪人とまでは(ギリ)言えないところに、救いのなさと不条理さを感じた。

特に、アマンダお母ちゃん。渡辺えりさん節が大炸裂していたので、原作印象の「口うるさくて面倒で、過去の思い出の中で生きている、あまりお友達にはなりたくない人」な部分は同じなのに、以前の印象よりも憎めない人になっていた。

生演奏をうまく活かした、長台詞の「早送り」の効果もあったと思う。確かに、口うるさい親の小言って、ああいう風に右から左へ流れていく。それがコミカルに演出されていたから、毒親感が薄れたのかも知れない。

和田琢磨さんのジムにはついうっかり騙されそうになった。ベティの話は嘘だろ、と思っているのに、なんだか丸め込まれてしまった。あれ?本当かも知れない?みたいな。だからなおのことずるいし、罪は深い。

相手がローラでなければ、時間をかければ立ち直れたかも知れないけれど、ローラにはそんなことは出来ない。砕けてしまったガラスは、もう元には戻らない。釘が打たれた棺桶は、もう開かれることはない。

僕は、幻想を装った真実をお見せします

テネシー・ウィリアムズは、姉のことを書き続ける。ローラという幻想の中に。そうすることで、姉は認識され続ける。そうすることで、姉は存在し続ける。

1幕に登場する「虹色のハンカチ」が何の象徴か、というお題を今回チケットを取って頂いたOさんから、観劇前に頂いていた。(めちゃめちゃ良いお席だった!ありがとうございます!)

一晩経って、お亡くなりになった人の顔にかける布のイメージが浮かんだ。額の傷跡を隠すような。手品の棺桶の話とセットになっているからかも知れない。

ローラの脳内で展開される、タンゴを見事に踊る「自分」は、とても凛々しかった。脳内の理想系が立ち現れていた。だからこそ、現実の自分とのギャップにローラは苦しむ。

その直後にガラスのユニコーンが割られ、ジムの婚約者についての告白があり、と夢の絶頂から絶望のどん底までの落差が、あのダンスシーンがあることで、より一層激しくなった。人は、誰かの大切にしているものをあっさりと壊すことがある。相手のあっさりとした謝罪に、傷は更に深くなる。

観劇体験は、その時の自分の精神状態を映し出す。だとしたら、今の私は随分と疲れているのだろう。

テネシー・ウィリアムズ関連の別作品note感想は、以下。

明日も良い日に。

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