授業のテーマ(ねらい)は、子どもに初めから提示すべきか、否か

五大論争の二つ目の題について、僕の考えを書いていこうと思います。

前回の記事でも述べた通り、あくまでも方法論に関する論争であるため、最善解は目的によって変わります。

その上で、私はこう思うということを書いていくつもりです。

授業のねらいを子どもに提示すべきかという問いに関しての僕の答えはNOです。

よく、子どもたちが、「先生はこういう答えを言ってほしいんだな~」という忖度をさせないために、めあてを提示しないという意見を聞くことがありますが、そのような理由ではありません。そもそも、子どもが簡単に考えてわかるような結論であれば、わざわざ45分間の道徳の授業をする必要はありません。

大切なのはどうやって主体的・対話的で深い学びにしていくかです。

前回も論拠の一つとして使いましたが、道徳の授業は45分一本勝負、つまり、超短期決戦のつもりで授業を構成していかなくてはなりません。できれば、導入から一番メインとなる部分に到達するまでに10分から15分が理想的です。それ以上長くなってしまうと、考え議論する時間が足りなくなってしまいます。

もう一つの論拠は、めあては教師から出すものではなく、子どもが見つけるものであるからです。子どもからめあてを引き出そうとすれば、どうしても、導入に時間を割くことになってしまいます。それよりは、導入はさらっとすすめて、一番のテーマのところで深く考えさせた方が良い結論を導けるのではないでしょうか。

加えて、問い返しです。ここで子どもたちを思考の泥沼に引きずり込みます。子どもたちから出てきた考えや意見が通ったとしても、なお納得しずらい状況を提示したり、初めの子どもの意識と、出てきた考えとの矛盾を指摘します。ここで、子どもたちは再度考えることになるわけです。

つまり、導入の役割は、資料やこれから考えていく価値に対して、簡単に興味を持ってもらうことであって、主体的な学習のスイッチを入れることに関しては大きく重視はしないということです。

もちろん、これが45分一本勝負ではなく、数時間かけて探求していくものであれば、めあては提示すべきだと思います。活動が停滞したときや、迷いが生じたときに立ち戻る場所になるからです。

とはいえ、45分の勝負の中では旗印を明確にすることよりも、議論の中での様々な触発を期待したいと私は考えています。

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