道徳授業で体験的な学習をメインにすることはよいのか、否か

今日はこのタイトルの論題について書いていきます。

前回の記事でも述べた通り、あくまでも方法論に関する論争であるため、最善解は目的によって変わります。

私の考えでは、体験的な学習にしてもよい。ただし、きっちりとしたねらいのもとでふり返りや発問がされるのであれば。というものです。

体験的な学習といったときに勘違いしてはならないのは、悪や不快を体験させてはならないということです。例えば、いじめている側といじめられている側にわかれ、役割演技等を行う等をすれば、いじめを助長することにもなりますし、倫理的にもアウトです。

その上で善を体験させることはどんな役割を担うことになるのか。それは、端的に言えば、教科書の代わりではないでしょうか。つまり、体験的な学習が児童の道徳的問題を喚起してそこを出発点として話し合うというものです。(これを教科書も使って、体験的な学習もして・・・となるとどう考えても時間が足りません。)

メリットとしては、

体験したリアルな経験から話し合いがスタートできる。

「体験したものの方が、話を聞いたことだけよりも、より自分事のものとなっており、出てくる意見が変わってくる。」

伝聞と体験では同じことでも経験の質が変わってくるというものですね。

ただ、ここでの体験的な学習というのはあくまでも、切り取られた中での経験であるということを忘れてはいけません。

体験を用意しているのはあくまでも大人です。子どもたちが自らその体験をすることを望んだり、体験することに日常の中で偶然出会ったりといったものではありません。そこに、体験の質的な違いがあるのではないでしょうか。

体験そのものに本当の意味でのリアリティーがあるのかということはとても大切なポイントだと思います。ふと、出会った日常の強烈な体験であれば、どんな子でもそのことについて話してくれます。というより、話したくなります。その時の姿は真剣そのものです。

用意された体験にはどこか白々しさが残ります。体験の中身をどれだけリアリティーのあるものにしていけるか。つまり、切実で、重要で、話したくなる体験を用意できるかどうかが重要になってくるのではないでしょうか。

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