道徳科での主体的で対話的で深い学び②

 昨日の記事では8通り考えられる、学びの形態のうちの二つについて考えました。今日の記事はその続きになります。

④主体的であるが対話的でなく浅い学び
 主体性はあるけれども対話がなく、学びも浅いものとなっている状態。道徳科の授業に当てはめてみると、役割演技をすることが目的となってしまった授業ではないでしょうか。役割演技をしたけれど、その演技を基にした話し合いがなく、「〜さんは、頑張って演技をしていた」「〜さんの声が大きかった」「良かった」といった言葉がけのみがあって話し合いがなされないまま一時間が終了してしまったといった感じでしょうか。役割演技はそれ自体で子どもの興味を惹くものではありますが、目的をもって授業の中に取り入れていかないとまさに、活動会って学び無しの授業になってしまいます。

⑤主体的でなく対話的で深い学び

 主体性はないが、対話があり、話が深まっているという状態。書いてみて何ですが、その様な状態はあまり想像ができません。対話が生まれてくるためにはどうしても子供が話したい!という主体性が必要になってくるからです。強いて例を挙げるならば、導入でうまく子どもたちが乗ってこなかったモラルジレンマディスカッションのような授業ではないでしょうか。あまり、議論をする価値がないと子どもたちが感じていながらも授業の形式上、仕方なくしているといった状態だと言えそうです。その状態で議論が深まり、深い理解につながっていくかと言えば・・・やはり、その様な状態を想像するのは難しいです。

⑥主体的でなく対話的で浅い学び

 まさに、上で書いたような授業になってしまったときには⑥のような状態になってしまうのかなと思います。議論はしているけれどもどこか他人事でうわ滑りしているような授業と言えそうです。このようになってしまうことはあまり起きないような気がします。議論が起きるということはある意味、子どもたちが活発に活動している状態だからです。

いつもより短いですが、今日はここまで。

この記事が良かったと思ったらスキ!&フォローよろしくお願いします。日々の投稿の励みになります。サポートも頂ければ、日々の教育の中で使おうと考えています。