【ショートショート】欲望

 仕事が早く片付いたせいで、いつもの時間よりもずいぶん前に着いてしまった。あたりはまだぼんやりと明るかった。
 人通りが途絶えた公園のベンチに腰掛けると、彼女と初めて出会った夜のことが思い出された。
 月がきれいな夜だった。残業でへとへとになった僕はいつも通るこの公園へと足を踏み入れた。
 公園の中央には滑り台が置かれていた。そのてっぺんに彼女はいた。月を見上げるように。
 通りかかった僕に気がついたとたん、彼女はバランスを崩してよろめき、その場所から滑り落ちてきた。
 大丈夫ですかと言って駆け寄ったのが、彼女にかけた初めての言葉だ。
 以来、彼女とはこの公園で時々顔をあわせるようになった。そのたび取り留めのない会話をし、一緒にすごす時間も増えていった。
 僕も彼女も、お互いに好意を抱いていることには感づいていた。ただ、なぜか彼女は連絡先を教えてはくれなかった。いつも僕の仕事終わりにこの公園で会い、デートするのだ。
 足音が聞こえたので視線を振り向けた。彼女かと思ったが違った。一人の男がこちらに向かって歩いてくる。犬を連れている。シベリアンハスキーのように見えるが、どことなく不思議な風貌の犬だ。
 男は僕の目の前で足を止めた。その隣で犬がお座りをする。
「イシカワアキラくんだね?」
 見知らぬ男がなぜ僕の名をと不思議に思うものの、
「はい、そうですけど」
「サクラバアヤを知っているね?」
 それは彼女の名前だった。
「ええ、知ってますけど、それがなにか?」
「単刀直入に言おう。今後彼女とは会わないでもらいたい」
「は?何の権利があってそんなこと」
「アヤは私の妹だ」
 食って掛かろうとしていた僕は慌てて居住まいを正した。
「え?あ、どうもはじめまして」
「挨拶なんかどうでもいい。妹と会わないと約束してくれるのか?」
「いやいや。そんなこと約束できません。僕はアヤさんのことが好き……」
 そこまで言いかけたところで、よからぬ思いが頭をよぎった。もしかしたら好意を抱いていたのは僕だけだったのか?
「あの、まさかアヤさんが会いたくないと言ってるんですか?」
「いや。妹は、君のことがとてもお気に入りのようだ」
「だったらどうして?」
「これ以上話が進んだら困ることになるからだ。君も、私も、そしてアヤも」
「困ることってなんですか?少なくとも僕には困ることなんてありませんよ」
「君は妹から聞いていないのか?彼女は普通とは違うということを」
 その話は聞いていた。きっかけは彼女が左利きだったことだ。それを指摘すると、彼女はこう言ったのだ。
「私、みんなとは何もかもが反対なの」
「なにもかもって、どういうこと?」
「利き手はもちろん、頭から、身体の中まで全部よ」
 つまり、心臓や肺などの臓器の位置が普通とは逆だということだ。 
 僕がそのいきさつを話すと、男は不満げに口を開く。
「それだけか?」
「はい」
 すると男は傍らの犬をちらりと見てから大仰にため息をついた。
「やはり肝心なことは言ってないな」
「肝心なこと?」
 男は僕の問いかけを無視し、険しい眼差しを向けてきた。
「ひとつ訊ねる」
「なんでしょう?」
「君は人ならざるものと付き合う覚悟があるのか?」
「人、ならざるもの?って、なんですか、それ」
 片側の口角を吊り上げ、男は不気味に笑うと、
「我々は、狼人間の血を引く一族なのだよ」
 狼人間という言葉と、その芝居がかった表情が相まって、逆にこっけいに思えた。狼人間だって?それって狼男のことだろ?満月を見て、全身毛むくじゃらになって、獣人化したモンスターだ。そんなの本当にいるわけがない。
「ちょっと待ってください。アヤさんと別れさせるためにそんな馬鹿みたいなうそをつくんですか?」
「馬鹿みたいな嘘かどうか、その目で確かめるといい」
 男は腕時計に視線を落としつつ、
「間もなく日没だ。夜になると、我々狼人間は人から狼へと姿を変える。月の光などは関係ない。半人半獣の姿になるのも後の創作物によるイメージだ。ただ純粋に狼へと姿を変えるだけ……」
 言っているそばから男の身体は徐々に前傾姿勢になっていく。顔は前後に伸び、肌には短い毛がびっしりと生え始めた。
 身体が狼へと変わっていく男の隣で、それまでおとなしく座っていた犬がうめき始めた。
 後ろの二本足で立ち上がり、全身の毛が消えていく。そして、頭部が徐々に人のそれへと変形し始めた。
 そこに現れた顔を見てようやく悟った。
 彼女がみんなとは何もかもが反対だと言っていた本当の理由が。彼女が言うみんなとは僕たち人間のことではなく、狼人間のことなのだ。そして、夜になると狼に変身するのとは逆に、狼から人へと姿を変えるのだ。
 人ならざるもの。その秘密を知ってしまった以上、このまま彼女と付き合うことは無理なように思えた。
 ところが、直後に僕の目に飛び込んできた光景を見て、すぐにその考えを改めた。
 いつの間にか空に満月が昇っていた。
 その光を浴びながら、一糸纏わぬ姿のアヤが立っていた。
 それは神々しいまでに美しかった。
 こんな身体を抱けるのなら、狼人間だろうと僕は付き合えると思った。


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