【短編小説】注文のない料理店

「そうだ、釣りに行こう、釣り」
 そう言ったのは八木先輩だ。
「僕泳げないから無っす」と断っても、
「渓流釣りだから水深も膝下程度だ。溺れることなんかないって」
 強引な誘いに乗った結果がこれだ。まさか道に迷うことになろうとは。
 てっきり先輩はその土地に詳しいものと思っていた。だが迷ってから、初めてくる場所だと聞かされたときは内心怒りを覚えた。
 道は二手に分かれていた。あたりには霧が立ち込めているから数メートル先がもう見えない。振り返っても道は霧の中に消えている。相当山深いところまできてしまったのか、携帯の電波も入らない。
「こっち行くか」
 八木さんは右方向を指差し進もうとする。
「大丈夫ですか?こういう場合、下手に動かないほうがいいんじゃ?」
「平気、平気。俺のカンは当たるんだから」
 その勘が本当に当たるなら道に迷うこともなかっただろうにと思ったが口には出さず、しぶしぶ先輩のあとを追う。
 やがて霧の中にぼんやりと灯りが見えてきた。八木さんがほら見ろと言いたげにこちらを振り返った。
 近づくとそれは大きな西洋作りの建物だった。入り口の上に看板が掲げられているところを見るとなにかの店のようだ。そこにはこう書かれていた。
〈晩餐館dernier〉
「ばんさんかん……なんて読むんだ?」
「さあ」と僕も首をひねる。
「英語か?フランス語か?」
「わかんないですね。でも晩餐館って書いてあるから、飲食店かなにかじゃないですか?」
「だったらちょうどいいじゃん。俺腹減ってんだ。入ろうぜ」
 言われてみれば僕もお腹がすいていた。それに入ればお店の人に道を尋ねることもできるはずだ。
「そうですね」と応じると、先輩は店の扉を開けた。
 戸口から店内を一望できた。席はほぼ埋まっている。みな無言のまま黙々とご飯を食べていた。寿司にステーキにカレーライス。パスタに餃子にすき焼きと多種多様だ。ここはファミレスみたいなものなのだろうか。
 客の年齢層は比較的高そうだ。そのほとんどが一人客だ。奥には団体客も一組いたが、どういうわけかその仲間内ですら全く会話をしていない。かちゃかちゃと食器のあたる音だけが店内に響く。
「おい、あそこ座ろうぜ」
 先輩が指差した空席に移動し、腰を下ろした。
 するとすぐさま店員が姿を現し、八木さんの前にカツカレーとスプーンを置いて去っていった。
「え?」と二人して料理と店員を交互に見る。そうしている間に店員は奥に姿を消してしまった。
「どういうことですか?」
「知るかよ」
「誰かの注文、間違って来ちゃったとか?」
 僕たちはあたりを見渡した。料理を待っていそうな人は誰もいない。
「なんなんでしょうね?」
「わかんないけど……」
 言いながら先輩はテーブルの皿に視線を落とす。
「ただ、ちょうど今食いたい気分だったんだよな。メニューにあったら絶対注文しようって思ってたんだ」
「へぇ。だったら食べちゃってもいいんじゃないですか?」
「だよな」
 言うなり先輩はスプーンに巻かれたナプキンを解き、カレーを口に運んだ。
「うまっ」と顔をほころばせる八木さんを尻目に、僕はなにを食べようかとメニューを探した。ところがテーブルの上には何もないし、壁にも何も貼られていない。店員を呼ぼうにも呼び出しボタンもなかった。
 どう注文すればいいのかと思案するうち、食べ終わったと思しき男性客が席を立った。彼は金も払わず店外へと姿を消した。そういえば入り口付近にレジらしきものがない。ということは席で支払うシステムなのだろうか。
 入れ替わるように別の客が入ってきた。女性だ。彼女が空いた席に座るとすぐに店員が出てきて、注文もしていないのにテーブルにパスタを置いて去っていった。
「ちょっと先輩」
「ん?」と応じるが八木さんは顔も上げず、カツカレーに集中している。
「この店、どうなってるんですかね?」
「なにが」
「だって僕よりあとに来た客に、先に料理が出たんですよ。それも注文もしていないのに」
「だったら店員呼んで文句なり注文なり言えばいいじゃん。俺に言うなよ」
 そうしたいところだが、店内が静か過ぎるから大声で店員を呼ぶのは憚られた。それなら立って呼びに行こうかと迷っているうち、奥から店員が現れ、さきほど空いた席の食器を片付け始めた。
 咄嗟に立ち上がり手を挙げた。店員の視界に入るように身体を傾け、手を振るうちにようやく気づいてもらえた。
 空の皿を持ったままこちらに来た店員は詫びることもなく言った。
「なにか御用でしょうか?」
「メニューをもらえますか?」
「そういったものはございません」
「え?」
 じゃあどうやって注文するのだ。まさか予約しておく必要でもあったのか?って、いやいや。先輩にはカツカレーが出されたではないか。でもそれは注文したものではないのだから、やはり予約は必要なのか?みんなこんな山奥の店に予約を入れてわざわざ食べに来たのか?それほどここの料理は特別なのか?
「おい」
 先輩の声で我に返った。彼はトンカツを頬張りながら、
「何でもいいから、食いたいもの言ってみりゃいいじゃん」
 そうか。単にメニューがないだけで、言えばなんでも出してくれるのかもしれない。
「あ、じゃあ、ラーメンとチャーハンのセットとかありますか?」
「ラーメンとチャーハンのセットでよろしいのですね?」
「はい。お願いします」
 頭も下げずに店員は去っていった。
「な。いけただろ」
「そうですね」と、難しく考えすぎた自分が恥ずかしくなり照れ笑いを浮かべていると、不意に隣の席から視線を感じた。見れば老婆がこちらをじっと見ていた。テーブルの上には半分ほど食べ終えた分厚いステーキが乗っている。
「なにか?」
 問いかけると、老婆はナイフとフォークを置き、両手をひざの上でそろえた。
「あなたたち、まだお若いわね。幾つ?」
カツカレーを食べるのに忙しそうな先輩に代わり、
「28と25です」
「あら、私の孫と同じくらいの歳ね」
 彼女は様子を窺うように店の奥のほうを眺め、それから八木さんの顔へ、そして僕へと視線を移した。
「お連れさんは仕方がないけど、どうやらあなたがこの店に来たのは間違いみたいね」
「え?どういうことですか?」
「たぶん、あなたの分の料理もすぐに運ばれてくると思うけど、絶対にそれは食べちゃダメよ。その前に、今すぐこの店を出て、来た道を戻りなさい」
「は?だからどういうこと……」
 老婆の目が店の奥へと向いた。店員が出てきたのだ。
「さ、早く」
 切羽詰ったその表情は有無を言わせぬ迫力があった。とりあえず僕は椅子から腰を浮かせながら、
「あの、先輩。なんかここ、ヤバイみたいですからすぐに出ましょう」
 ところが八木さんはのんびりと咀嚼を続け、ようやく飲み込んだかと思えば予想外の返答をした。
「ああ、俺、これ食ったあと行かなきゃならないとこができたから、お前だけで行くといいよ」
「は?行くってどこへ?」
「それは……」
「ちょっとあなた。お連れさんを誘っても無理よ」
 口を挟んだ老婆に、無理ってどういうことだと言おうとしたが、視界の端に店員の姿が入った。両手にラーメンとチャーハンを持ち、こちらに向かってくる。
「さあ、行きなさい」
 老婆が僕を急かす。先輩は相変わらずカツカレーを食べている。しょうがないので八木さんはそのままにして、僕は扉のほうへと歩き始めた。
「お客様、どうなさいました?」
 背後から聞こえる声にも足を止めることなく振り返り、
「すみません。ラーメンとチャーハン、キャンセルで」
 店員はこちらに歩み寄りながら、
「困ります。料理は出来上がっているのですから食べていただかないと」
「ですから、いらないんですって」
「そう言うわけには参りません」
 無表情のまま、店員はどんどん僕との距離を詰めてくる。
 慌ててドアを開け、外に飛び出した。入店しようとする客とぶつかりそうになりながらも来た道を戻っていく。
「お客様、どちらへ?」
 ちらりと後ろを見ると、店員は客を突き飛ばして僕を追ってくる。その鬼気迫る表情には狂気すら覚えた。
「お待ちください、お客様」
 店員は小さな目で僕を見つめたまま走り出した。
「最後の晩餐、食べていただかないと困ります」
 サイゴノバンサン?それって死ぬ前、最後に食べる食事のことだろ。なんでそんなものをこここで……ってそうか。さっきのお婆さんが言ったのはそう言うことか。絶対食べちゃダメなのは、食べたら死ぬからだ。料理に毒が盛られているとかの話じゃない。食べ終わった客は普通に出て行ったのだから。恐らくこの店は、あの世へと旅立つ死者に最後の晩餐を提供する場なのだ。今わの際に食べたいと願った食べ物を。
 あの老婆は僕がこの店に来たのは間違いだと言っていた。つまりここは死者が立ち寄る店であり、そこにまだ死んではいない僕が迷い込んだってことなのだ。だからすぐには料理が出てこなかった。
「ラーメンを、チャーハンを!」
 背後からの声が大きくなった。振り返れば徐々に距離が縮まっている。店員は手の中のどんぶりから汁が飛び散ろうがお構いなしだ。なにが何でも僕にあれを食わせるつもりらしい。
 恐怖に駆られ、懸命に足を動かした。
 だが店員はそれ以上のスピードで追ってくる。「ラーメンを、チャーハンを!」と叫びながら。
 全速力で走るうちにだんだんと息が上がってきた。それとともに店員の声が間近に聞こえてくる。
「お客様、最後の晩餐を召し上がれ」
 すぐ後ろで声が聞こえると同時に、ぬっと肩越しにどんぶりが突き出された。ちゃぷんと汁の跳ねる音がする。
思わず身をかわした僕はバランスを崩して転倒してしまった。ごろごろと転がってから、ようやく仰向けで止まった。
 もう終わりだ……。
 観念して目を閉じていたのだが、一向に何も起こらない。耳にはさらさらと水の流れる音が聞こえてきた。
 恐る恐る目を開けると、川の畔に大の字で寝転がっていた。下半身は水に浸かったままだ。
 そのまま呆然と空を見上げるうち、徐々に記憶が甦ってきた。
 そうだ。川に入って釣りをするうち、僕は急な深みにはまって溺れてしまったのだ。それを先輩が助けようとして……。
 慌てて体を起こした。僕の足元から数センチ先で、八木さんが水面に顔を突っ伏したまま漂っていた。
 先輩は僕を助けようとして、逆に溺れてしまったのか。だからあの店で、注文もしないのに料理が運ばれてきたのだ。
 急に身体が震えだした。自分で自分の身体を擦るうちに気がついた。肩になにかがはり付いていたのだ。そっと手にとって見ると、それはあのラーメンに入っていたと思しきチャーシューだった。


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