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人と向き合うことは自分と向き合うことだ

 

 今年の夏、一人の青年に出会った。第一印象がとにかく爽やかで、心臓のあたりがキラッと光る心地がした。こんなに素敵な人を見たのは久しぶりだった。


  初めましての人とする定型文の会話から、何気なくお互いの趣味がいくつも一致していることに気がついた。飾らずとも自然に会話が進んで行って、男友達が中性的な人と地元のヤンキーしかいないわたしには、初めて異性の前で自分を開示できた瞬間だった。

それからわたしたちは心の深いところまで潜って意見交換をして、まるで昔からの友人だったみたいに時間を忘れて趣味の話に興じ、自分の人となりや昔の恋の話をした。わたしはその人のことをもっと知りたかったし、欲を言えば理解したかった。好きになっていたんだと思う。


  彼はわたしの10歳上で、わたしがこの世で最も尊敬している“表現者”に類される人であった。彼は本業のことを初対面の時に教えてくれた。後々どうしてすぐに教えてくれたのかと聞いたら、片方の口角を上げて、害がなさそうだったから。と言った。

表現者である彼は、その頭と身体の全てをもってさまざまな出来事を感じ、考え、それを作品にして生きてきた人だった。わたしがかつて生と死について考えていた頃、彼は自身の存在意義について考えていたみたいだった。わたしは彼と話す度に自分に足りないものに気がついて、それが内省の材料になっていた。


  自己理解を進めるには他者理解がいちばんの近道であると、就職活動の自己分析をしている時に気がついた。わたしと彼の会話は常に他者理解と自己理解が交差していた。わたしは彼との魂のぶつかり稽古の中で、無意識中にハッとさせられたり、未熟な精神性に気づかされたりすることが常だった。彼の中にあるものとないものを自身と比較して共感したり、落ち込んだりしていた。彼は逐一わたしのコミュニケーションの穴を掘り返して、言葉や態度で示してくれた。コミュニケーションがとても上手な人だった。

そんな彼にも曲がったところは存在していて、わたしが心の趣に任せて空論を明朗に語ろうとすると、信じることは最も愚かで危うい、すべては思い込みや勘違いなんだよ。と笑いながらわたしを諭した。信じることで傷ついた過去があるんだと思った。彼は愛想笑いが得意だが、本心にないことを言うときは決まって口元を歪ませるのをわたしは気づいていた。



  ある日、わたしは彼に心の中のやわらかいゼリーのような部分を引っ掻かれた。ジェンダー論の話をしていた流れで恋愛の話になって、かなり核心をついた指摘をされた。わたしは自分を開きすぎたと後悔し、同時に数分間、身動きが取れなくなった。

‘‘ 自分のいちばん自信がない部分を大切な人に知られたら、嫌われてしまうのではないかと不安になる。’‘ これが人とまっすぐに対峙することを恐れていた最大の理由で、だからずっと恋愛に臆病だった。わたしは怠惰で努力をしないくせに、他人に良く見られたくて取り繕うところがある。自分がいちばんよく分かっている、自分のいちばん嫌いなところを見透かされていた。それでも彼はわたしが落ち着くまで傍で話を聞いてくれた。本当に優しくて人想いなひとだった。その気遣いにもいちいち感心してしまっていた。

その後も彼はゆっくりと紐解きを手伝ってくれて、わたしは誰にも知られたくなかった弱い部分を見つめ直すことにした。こうしてわたしは長らくカバーを掛けていた心の脆い部分に、透明なアクリルケースを付けて展示できるようになったのだ。

もう同じ轍は踏まないと心に決め、持つべき目標が明確になったわたしは羽化した直後の蝶のようだった。背中から羽が生えて、これからどこへでも飛んでいけるような心地がした。

その時に彼がしてくれた光の話は、彼の存在意義を窺い知れるものだった。これは誰にも話さず、わたしの心の中にきれいな白いレースで覆って仕舞っておくことにした。


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