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吉木誉絵さんの著書『日本は本当に「和の国か』書評前序論

ちょうど私と同世代の吉木誉絵さんのデビュー作となる書籍がPHP研究所よりリリースされました。

私も、大学時代は佐伯啓思先生の研究室に出入りしていた面もあり、カテゴライズとしては、「保守」に分けられるのかもしれません。ただ、「保守」というカテゴリー内でも多様性があるということを同世代の方の書籍をお借りして、盛り上げていけたらなと思っております。

言論のタコツボ化と議論の弱体化

昔、丸山眞男が『日本の思想』で日本の社会や文化を「タコツボ文化」と評しました。一つ一つの業界やジャンルが、孤立して存在しており、相互コミュニケーションが皆無の根無し草という批評でした。

例え話で恐縮ですが、タコは自分の足を食べるといわれております。最新の研究では、致死性の神経性疾患によって引き起こされ、自食しはじめると、1日~2日で亡くなるとのことです。

私は、今の言論の業界(いわゆる左派も右派も含めて)がタコツボの中で、自食を始めているタコのように思えてなりません。いわゆる右派業界紙は右派の論者しか載せず、左派業界紙は左派の論者しか載せないということです。そのため、言論界の人々も右派左派を巻き込む問題提起をできず、タコツボ化が進んでいるという見解です。

そして、業界の同人化が進みすぎてしまい、もはや議論されるよりも、ただ、お互いの意見を愛で合うだけになっていないかと思うのです。

議論の弱体化と福澤諭吉の危惧

吉木さんの出身校でもある、慶應義塾の創設者、福澤諭吉は、『文明論之概略』において、一国独立のためには、一身独立せねばならないと説き、一身独立のためには、「人民の気風」が必要だといいました。

この「人民の気風」に関しては色々と解釈がありますが、わかりやすくすると、国民が喧々諤々と議論をすることです。

これは逆の解釈ですが、その議論することが頻度少なく、内容が低次元であれば、一身の独立も弱く低次元なものとなり、一国の独立もまたそれに続きます。これは今にも生きる福澤の危惧です。

議論の作法

さて、私の中での議論の作法を覚書しておきます。下記内容に則って次の弾より、吉木さんの書籍を中心に議論してまいります。

① 問題提起は明確に(誰が読んでもわかりやすく)

② 指摘するのは論理矛盾か条件設定の不備がメイン

③ ”ありき”ではない、結論を出す。

④ 正当性を争うのではなく、よりよい解を導く。

まったりやっていきますので、よろしくお願いいたします。

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