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小川町編:カロリー・オーナー江本篤哉さん


神田小川町ライブイベント「ワクワクFESTA」

今回は神保町から靖国通りを隔てた隣町、小川町編です。

3月23日、駿河台下交差点で神田小川町ライブイベント「ワクワクFESTA」が開催されました。
心配されていた雨も午前中には上がり、宇崎竜童さんをはじめ、多くのミュージシャン、パフォーマーの熱演が待ちゆく人々の足を止め、会場内は熱気に包まれていました。普段の駿河台下では見られない光景でした。

このイベントを取り仕切っているのが、洋食屋「カロリー」のオーナーであり、街角から音楽を実行委員長でもある江本篤哉さんです。

音楽が流れてくる街にしたい

DU: そもそもどうして、ここでライブイベントが始まったのですか。

江本(敬称略):きっかけは宇崎竜童さん。彼は明治大学出身で学生時代授業はあまり受けてなかったけど、バンドで稼いてカロリーで食うのが楽しみだったらしいんだよね。でもそのあと60歳まではあんまりお茶の水には来なかったみたい。ところがある時ここに来て、「そうか、俺の音楽家のスタートはここなんだ」と。奥さんと出会ったのもこの街だしね。

それで、このまちでなんかやろうとジャズ祭を始めた。竜童さんはジャズ祭の打ち合わせの時に、懐かしいからスタッフたちとカロリーに食べに来るよね。
ある時彼がバンドのメンバーに話しているのを、僕は聞き耳たてたんだ。
「あのな、ニューオリンズという街は、街に出ると生の音楽がそこらじゅうから聞こえてくるんだよ。俺はここをそんな街にしたいな」
いいじゃない!それを聞いて僕が「竜童さん、それ、自分にもやらせてよ」と言ったら、なんと竜童さんが「オヤジ! 今からそれやろう」と即答。
竜童さんは僕のこと、オヤジって呼ぶのね。「蕎麦屋のオヤジ、寿司屋のオヤジ、そして江本さんはカロリーのオヤジだ」って。
ということでその1ヶ月後にカロリーの地下でライブを始めたのが最初。

地下の狭い店内に30人くらいぎっしり。1階にモニター出して外の人にも見えるようにしてね。売り上げはあるけど、竜童さんはノーギャラ、そしてカロリーは材料費分半分だけもらって、残りは全部東大震災で流されちゃったブラスバンド部に寄付した。

それで5回続けた。でもね、地下だから街に音楽が出ないんだな。「竜童さん、せっかくだから街中でやりたいね」それで駿河台下の交差点の駐車場で始めたんだ。だけど入場無料だから、第1回はみんな僕の持ち出しでね。でも2年目からは商店会の主催イベントになって区も助成してくれるようになった。それで今日まで続けられている。

DU: そんな熱い思いがあったのですね。この街で長く続けているカロリーならではですね。

父親の海外生活体験がカロリーの原点

江本: カロリーも71年目。洋食屋としてはかなり頑張って続いているよね。カロリーはもともと自分の父親が始めたんだけど。僕の父は中国奉天の生まれ。奉天というところは中国人、日本人の他にもフランス人、ロシア人、イギリス人もいて、人種のるつぼだったみたい。そこで洋服屋さんを営んでいて、羽振りは良かったみたい。親父はひとりっ子で、学校から帰ると当時ビクトリアというお店のフランス洋菓子店で紅茶とミルフィーを食べるのが最高の楽しみだったらしいっていうんだから相当進んでいるよね。その後日本で同志社を出て徴兵。中国語と英語ができたから大陸で働いていた。

敗戦で中国から逃げ帰ることになったんだけど、50キロもある荷物抱えて、毎日ひたすら逃げた。あまりにも逃げるのが辛くて自決する戦友もいた。でもなんとか逃げおおせた20人の一人だった。

日本に帰ってきてからは、英語が話せるというので、銀座四丁目服部時計店のところにあったPXで日本人初のフロアマネジャーとして働き始めた。
それで砂糖手に入ったこともあり、お店を始めた。当時は戦後の混乱期だったから、いろんな人といろんな仕事して、騙されたりして、それはもう大変だったらしい。

ある日占い師にお茶の水が吉だと言われて、昭和28年に三省堂書店の脇に小さな洋食屋を開いたのがキッチンカロリーの始まり。

でもね、暇だったらしい。当時は洋食屋なんて誰も知らないから。あんまり暇だったから営業中も従業員交代で映画見に行っていた。
ところが出前を始めたら大当たり。ちんどん屋がカレーを食べながら街中を練り歩くなど、いろんなことを考えて実践した。

その後聖橋に2店舗目を出したら、それが大当たり。

その後、三省堂書店横の1号店が手狭になったので、いまの小川町に越してきた。
そのころは20店舗くらいあった。飯田橋、六本木、秋葉原など。
このビルもオーナーの帽子屋さんから東京オリンピックの頃に買いとることができた。1964年くらいだね。
当時飲食店というのは、銀行がなかなかお金貸してくれないからね。仕方がないから現金貯め込んで、次の店舗の開店資金に回していた。

DU: そうすると、失礼ですがかなりどんぶり勘定な経営だったのですね。

江本:そう。働き手もいくらでもいたから、いまと違って人件費もそれほど負担にならない。
ところがね、羽振りよくやっていたら脱税を指摘されて重加算税までたっぷり取られた。親父はもう死のうかと思ったらしいけど、なんとか立て直すことができて、生き延びた。

まずはフランスで本格フレンチを学ぶ

DU:江本社長はどのような経緯でお店を継ぐことになったのですか。

僕はね、中学から大学まで観世流能楽師の内弟子だった。それで能楽師を目指していた。
でもね、僕は声がいいでしょ。

DU: 確かにすごく羨ましい、いい声です。

声が良い人は能楽師としてはなかな大成できない。かといって僕が大学出る頃はオイルショックで、周りもみんな就職浪人。で親父から「カロリー継ぐか?」ということに。
でも、すでにお店にはベテランのコックが沢山いる。将来彼らを統率するにも、自分は何も彼らに誇れるものはまだない。だから自分は勉強しなきゃ、ということでフランスで料理の勉強をすることにした。本当は僕は山が大好きだからモンブラン行きたかったというのもあるけどね。

まずはフランス大使館に行き、連絡先をリストアップし、行ける学校に全部手紙を送った。一所懸命辞書をひきながらね。ところがどこの学校も2、3年待ちなんだよ。
ところがコルトンブルーだけはすぐOKの返事が来た。
行ってみてわかったんだけど、コルトンブルーはフランス人がフランス料理の勉強をするところではなく、どちらかというと世界各国の人がフランス料理を習いにくるところなんだよね。
日本人も5人いた。桂花ラーメンの息子もいて友達になった。よく彼の車で一緒に遊びに出掛けて、アラブ料理のクスクスなんかを食べに行った。

フランスでの勉強を終え、今度は赤坂のフランス料理店。ここではサービスをみっちり1年間学んだ。伝説の料理人志度藤雄(*)のもとでね。厳しかったけど、

*志度藤雄:吉田茂が総理大臣を務めていた時に料理番を務める。「日本のフレンチの草分け、先駆者」などとも呼ばれる

で、赤坂の次は銀座の中華料理の立て直しをしろと。当時父親は中華料理店を共同経営していたんだ。元々我が家は外食といえば横浜の中華街。中華料理には馴染みがあった。
でもね、当時の銀座は全部社用。ということはみんなツケ、掛売りなんだよ。

しかも後日請求書を送ってもなかなか払ってくれないんだもん。もう、どんどんキャッシュフローが悪くなって。1年半やってみたけど、これは先行きないから、父親と出資者に話して店を居抜きで売り、それでやっと小川町のカロリーに入社した。

DU: ようやくですね。

それからずっと今まで頑張ってきたけど、いろんなことがあった。一番大変だったのは狂牛病。だてうちは肉しかないんだから。最初の1月は1割減。次の月は4割減。
肉以外のメニューも考えたけど、そんな小手先では無理。だから狂牛病特別対策の資金を借りるだけ借りて、それでなんとか従業員に給料を払うことができたよ。
コロナの時は東京都がいち早く助成金出してくれたから、だいぶ助かった。
学生は全部オンライン授業。だから当時の学生はカロリーの味を知らないんだ。

後編では「名物カロリー焼き」誕生のきっかけや、江本さんのこの街への想いを語っていただきます。お楽しみに

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