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人間関係と自分と

あんたはヒトのつながりってのをどんな風に考えているかい?

いつも独特の文章と、独特のイラストで俺たちを楽しませてくれるきゃらをさんがこんなことを書いてくれていたんだ。

めっちゃざっくり俺の解釈を書くと、「SNSってのは続けるのも辞めるのもむずかしいね」かね?
あれ?偏った読み方している?

まあ、一旦俺の解釈のままに思考を巡らせてみるとだよ。
確かにSNSを続ける意図ってのはヒトそれぞれなんだよな。

今回はいろんな人間関係のことについて考えてみる回だ。

俺たちの人間関係ってのがどんな意味を持つのか。ちっと考えてみようぜ。

生活圏における人間関係

俺たちは仕事場だったり、学校だったりって言うリアルなフェイス・トゥ・フェイスでの人間関係ってのを持っている。
俺みたいな在宅勤務が基本の場合ですら、この直接的な人間関係ってのはゼロじゃない。

そこにあるのは、抜き差しならぬ利害関係ってのを抱えながらのWin-Winをお互いに模索していく作業なんだよな。

なんなら、リモートでのみの人間関係でもその前提は成立すると思う。

そして、そのWin-Winが成立しないとどちらかが感じたときに人間関係のバランスが崩れる。

実に当たり前の日常にある状況だよな。

SNSにおける人間関係

じゃあだよ。
SNSでのやり取りだけでつながっているようなヒトとの人間関係ってどうなんだ?

例えば、俺の記事を楽しんでくれるあんたと俺の関係ってイメージをしてみる。

たぶんというかほぼ確実にあんたは俺の記事をオモロイと思ってくれたときは読むし、オモロイもんじゃないなと冒頭の数行を見て思ったら読まない。

極めて当たり前のこった。

それでも、まあまあ読むのがめんどくせえ文量の俺の記事をだ。
読んでスキをくれるヒト達がいる。

まあ、ありがたいよな。
有象無象にある記事の中でだ。
俺の記事にたどり着いてもらって、その上で読んでもらって、その上で「まあオモロイよな」って思ってもらったってことだもんな。

ある意味奇跡みたいなもんだ。

そう考えてみるとさ。
あんたが俺の書いていることを見て、なんかしら俺とやり取りするってことは奇跡を超えた何かなんだよな。

コミュニティにおける人間関係

俺たちは地味にいろんなコミュニティに属しているよな。

地域の自治体みたいなものだったり、子ども会みたいな子どもを通じたコミュニティだったり、政治団体に所属しているヒトも居るだろう。
オンラインサロンに所属していてるヒトもいるだろう。オンラインサロンの場合は掛け持ちでいろんなコミュニティに所属しているヒトもみるよね。

その各々のコミュニティの中で各々の人間関係が構築されている。

俺の感じだとね。

各々のコミュニティでの人間関係ってのは、そのコミュニティに合わせた形で自然にみんなが振る舞い方を調整していると思うんだ。

それが悪いことだとは全然思わんのだけれど、それは俺たちが「相手に合わせて自分を日々調整している」ってことなんだよな。

なに?それは外面だけのことだろうって?

たぶん、感覚としてはそうだと思う。
俺もそんな感覚はある。

人間関係がもたらすもの

ただね。
外面の調整を続けていくと、その調整は内面にも関わってくるってのはあると思うわけよ。

つまりね。
今まで書いてきた生活圏の人間関係も、SNSの人間関係も、コミュニティの人間関係も、全部俺たちを変化させ続けているってことだ。

俺みたいな頑固オッサンでもだよ。
家族からの言葉。
仕事場での言葉。
近所のヒトの言葉。
子どもの学校の先生の言葉。
そして、あんたの言葉。
これらの言葉によって変わり続けてるってのが現実だと思うんだ。

変わってはいけないのか?
いやいや、そんなわけはない。

課題があるとすれば、その変化は「今の」自分が好ましいと感じているかだ。もっと言うなら「これから先の」自分が好ましいと感じるかって予想だ。

そもそも、今の自分がいろんな人間関係からどんな影響を受けているのかなんて普段は考えないだろ?

だからさ。
ちっと眺め直すのも良いんじゃないか?
自分の周りのヒトの言葉ってのをさ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは人間関係を眺めることで俺たち自身がどうなっていくのかを眺めることが出来ると思うかい?

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