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俺たちの幸せ

あんたは小室圭さんの年収が上がったってニュース見たかい?

いや、ぶっちゃけひと様の年収がどうとかってことにどうこう言える立場じゃないんだけれどさ。
素直にうれしかったんだよな。

なんかよくわかんないたたかれ方してたじゃん。この御仁。

少なくともご自身の生活においてなんかしらの金銭的な課題を抱えるってことは少なくなってきているってことだもんな。

眞子様のことも気になりはするけれど、何より小室圭さんが自らで何かを成し遂げたってのが良いと思うんだよな。

シンプルにどこかの誰かが俺の何の努力もなしに幸せになるってのはすげえうれしいことなんだよな。

だってそれってよ。
俺が居ようが居まいがヒトは幸せになれるんだぜってことじゃんか。

なに?俺のいる意味?
いやそれは俺が俺のことを認めるために必要なものだけれどさ。
それとは別に誰かが勝手に幸せになっているかもって思うことそのものはだよ。

シンプルに気分が良くね?

で、ちょっと考える。

あれ?
幸せってなんだっけ?
©ポン酢しょうゆ

今回はどこかの誰かの幸せってやつについて考える回だ。


幸せを感じるとき

そもそもだよ。
俺たちは何をもって幸せなんだって話だ。

仕事でなんかしらの成果を残せたら幸せか?
そりゃまあ、幸せだろう。

仕事をシンプルにして全体の労力が減ったら幸せか?
そりゃまあ、幸せだろう。

友人が何か成し遂げたなんて話を聞いたら幸せか?
そりゃまあ、幸せだろう。

俺たちってさ。
ぶっちゃけ、どんなことにでも幸せを感じることが出来るってのがあると思うんだ。

ただね。
俺たちの幸せってさ。
俺たち自身に舞い降りた状況で感じた幸せってなんか思い出せるか?

資産と幸せ

よく言っていることがわからないって?

例えばさ。
あんたがめちゃくちゃ裕福でお金で手に入れられるものは大抵何とかできる状況だったとするじゃん。
その状態にあったときにだ。

あんた幸せか?

「そりゃそうだろ」
あんたは言うかもしれない。
いやまてよ。
ホントにそうか?

いや、確かに有り余る資金で旅行に行ったり、うまいもの食ったりなんてことは出来ると思うよ。
でも、そんなん数年で飽きちまう気がしないか?

飽きるまで行かなくても、そんな豪遊が「当たり前」として感じちまう自分が想像出来やしないかい?ってことだ。

ぶっちゃけ、当たり前に住むところがあって、食べるものには困らなくて、まともな寝床があるって状況一つ取ったってさ。
世界的に見たら割とレアな状況だなんてのがあるじゃん。

でも、その状況を俺たちは「当たり前」って感じてると思うんだよな。

そして、その「当たり前」を手に入れていないヒトも、たぶん何かしらの幸せってのを感じることがあると思うんだ。

そう考えるとさ。

幸せって資産の多寡では決まんないもんだってことなんじゃないかって思えてくるわけだ。

不変の幸せ

だとすると、冒頭の小室圭さんの話に「よかったね」って感想を持った俺には矛盾があるってことになるのか?

思い直してみたんだけれど、やっぱ「よかったね」という感想そのものには矛盾はない気がするんだ。

なぜって?
だって、小室圭さんは頑張ってたじゃんか。

その頑張りの原因に家族の金銭的問題ってのがあったわけじゃんか。
それを何とかするために努力して、その努力が実を結んだ。

そのことが俺に「よかったね」という感想をもたらしていると思うんだ。

これってさ。
自分とは全く関係ない小室圭さんのことについて、「俺」が幸せを感じているってことなんだよな。

あんたにもあるだろ?
災害でなんとか救出されたヒトの話を聞いたとき。
電車男の恋が実ったとき。
合格発表の場で満面の笑みをたたえた学生を見たとき。

俺たちが感じているあの感じ。

あれを「幸せ」って言うんじゃないか?

俺たちは、誰かが幸せになっていることを幸せに感じているってことなのかもしれないな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは幸せを感じるために「誰か」を必要としていると思うかい?

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