見出し画像

一過性の幸福と不幸

あんたは優越感って言葉に対してどんな感情を抱くんだろうか?

ゲスな感覚だとは思うけれども、俺たちは少なからず「〇〇よりはマシ」っって認識に救いを求めている事があると思う。

自分は誰それより恵まれている。
自分は誰それより教育を受けることが出来た。
自分は誰それより衣食住に困っていない。
自分は誰それよりヒトを恨まずに生きていられている。

でもさ、この感覚を紐解いていくとどんどん自分って存在が情けないものだって感覚につながっていくと思うんだよ。

お前は誰かより恵まれていないと幸せを感じられないのか?ってさ。

今回は俺たちの中にある「幸福でありたい」って感覚について考えてみる回だ。

ちっと痛い話だとおもうけれど付き合ってくれよな。

俺たちが幸せを感じるとき

俺たちは一体どんなときに幸せを感じることが出来るんだろう?

多くのケースでは「前より良くなった」って状態認識によって俺たちは幸せを感じているんだと思う。

ところがだ。
この「良くなった」って感覚は非常に危うい。
っていうか客観的に評価できることが少ないってのが現実だと思う。

例えばだよ?
前の年より給料が増えたってことが起きたとして、そのことに「幸せ」を感じられるヒトって結構レアだと思う。
給料が増えたことでやれることは増えるけれども、そもそもやりたいことって何かを考えるよりも、目の前の課題をクリアしていくことで精一杯ってのが普通だと思うしね。

実際、そう言う評価を得た結果として給料が上がったとして、その上がったって事実を覚えていられるのっていいところ数ヶ月じゃんか?

それほど、俺たちにとって「幸せ」を感じることってのは瞬間に過ぎないってのがあると思うわけよ。

感覚が瞬間でしかないって事実

そう考えていくと、「幸せ」だろうが「不幸」だろうが、それを感じているのは俺たちにとってほんの一瞬に過ぎないってのがあると思うんだよ。

例えば俺たちは大病を患ったとして、その不幸にだって慣れる事ができる。
言い方を変えれば不幸を感じ続けることに耐えることが出来ないように俺たちの精神は出来ているってことかも知れない。

逆に幸福にだって慣れちまう。
今まで考えられないような収入を得たとしても、そのことが当たり前になるのに数ヶ月もかからない。

つまり俺たちは幸せであり続けることも不幸であり続けることも出来ないように出来ているってわけだ。

「幸せ」と「不幸」を感じる意味

ではその一過性の感覚でしかない「幸せ」と「不幸」には意味がないのか?

そうじゃないんじゃないか?

俺たちはその一過性の「幸せ」があると信じることが出来るから前にすすめるし、一過性の「不幸」があるからこそ、もうちっとマシな未来ってやつを想像できる。

言い換えれば「幸せ」も「不幸」も意味をもたせているのは俺たち自身ってことかもしれない。

そもそも意味ってのは客観的に計測ができるようなものじゃない。

いわゆる「虚構」だ。

そして「虚構」は俺たちヒトに絶大な力を与え続けている。
宗教も、貨幣も、国も、仲間も。
俺たちはありとあらゆる「虚構」によって力を得てきた。

その中の一つに「幸せ」と「不幸」という言葉がある。
この2つの言葉は俺たちを動かすきっかけを与えてくれているってのは現実としてあると思うんだよ。

だってよ?「幸せになりたいですか?」って言われて「幸せってなんですか?」って聞き返せる胆力をもったヒトなんてそうはいないと思うんだよ。

それほど、俺たちにとって「幸せ」って言葉はまるで麻薬のような依存性を持っているものだと思うんだ。

じゃあ、俺たちはその「幸せ」と決別して生きていけるんだろうか?
そりゃあ無理ってやつだと思うんだよな。

だって「幸せ」になるために俺たちは生きているって思うだろ?

でもその「幸せ」が実態を伴わないってのは現実だ。
だって客観的に観察できないものだもんな。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはその実態を伴わない一過性の「幸福」を追い求め、実態を伴わない一過性の「不幸」を恐れながら、永遠にもがき続ける現実を受け止められるんだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?