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ネットでのコミュニケーション

あんたは誰かからネットを経由して攻撃されるなんてことになってたりするかい?

いつも読ませてもらってるももまろさんの記事でこんなのを読ませてもらったんだよね。

いやね。
俺ごときの記事じゃね。
それほど多くのヒトが読んでくれている訳じゃないんで、俺に対して攻撃的なコメントとか引用とかをしてくるヒトは記憶にないんだよね。

でも、ももまろさんくらいの読み手がいるヒトの記事だったら、きっといろんなヒトが読んでいるんだろうから、いろんな意見が出てくるんだろうな。

ってか、おれ自身はXはものすごい限定的な使い方敷かしていないから、Xの特有の感情がジャストミートで表現されるSNSはあまり触れていないんだよね。

でも昔2ちゃんねるで分かりやすく言い合いをしていたこともあるんだ。

あれは、なんつーかお互い同意の上でののしり合いをしていたような気がする。

あれは良いものだったと思う。

今回は「相手を否定するやりとり」について考えてみる回だ。

ちっとコミュニケーションについて考えてみようぜ。


反応されたことに対する否定

ももまろさんの記事にリンクしてもらっていた音声があったんだよね。

お二人の方が自分のツイートにたいする「くそリプ」なるものを語る音声だったんだ。
とりあえず、冒頭のお二方があげる「くそリプ」ってのがどんなんだろうと思って聞かせてもらったわけよ。

そしたら、ちょっと俺の感覚と違ったんだ。

(1) 自分の発言のジャンルと別のことを言われた
(2) 自分の実際の知り合いに自分の発言を否定された

なんて感じだった。

え?

それなんでダメなの?

(1)については、むしろ自分の発言をもとに何か別物が出来たんだからむしろ喜ぶところじゃないの?
(2)については、実際の知り合いがものを言ってくれたんだから、感謝こそすれ拒絶するのはなんでなの?

マジで理解することが出来なくて、なんか表現することが出来ない不快感を感じてしまって、途中で聞くのをやめてしまった。

ごめん、ももまろさん。

つまり「俺に関わるなよ」ってことにしか聞こえなかったのよ。
なら発信するなって話になる話だと思っちまった。

俺に対する反応

いや、たぶんね。
俺ごときは全然みんなから反応なんてもらえないからさ。

「おめーにはわかんねーよ」で終わりな話かもだけれどさ。

きっと、このnoteというからくりが守っているところもあるんだろうな。

Xに比べるとあきらかに長文になることが多いSNSじゃん。
反論するには相当のエネルギーがいるんだよな。

特に俺の記事に反論するのって「反論する意味が思いつかない」っていうかぶっちゃけ「ああ、そうなのね」で終わる記事が多い気がする。

要するに反応することで「楽しいやり取り」も出来そうにないし「楽しいケンカ」も出来そうにないって思われている気がするんだよね。

楽しい思いをするにはあまりにもコストが高すぎるって感じ。

迎合した発信

それがわかってるなら、相手に合わせた発信をしとけば良いじゃんかって?

いやまあその通りかもしれないんだけれどさ。
それって俺が発信している意味ってどこに見つければ良いんだ?

いやね。
俺の書いている記事ってさ。
きっと万人受けする内容じゃないとは思うんだよ。

なにしろ理屈がきついし。
反論する隙間も見つけにくければ、同意するポイントも見つけにくいんだろう。

なんとなくね。
よくある「お役立ち記事」みたいなのならそれも良いと思うのよ。

なにしろ役に立ちゃあ良いんだから。

でも、俺みたいなエッセイもどきの記事だとさ。
読んでくれたあんたの気持ちが動かないと意味がないじゃん。

その意味では俺の記事は「そうでやんすか」って感想をもらうことでで終わっちまっているってことなのかもしれないけれどね。

なんか話があっちこっちに行っちまったな。
俺が感じたのは「くそリプ」なるものすら俺は受けることが出来ない状態で、それを受ける手段すら思い付いていないってことだ。

まあ「くそリプ」が発信者を不快にするコメントだったりDMだったりだと仮定すると、それを受けたことがないから、そもそも「くそリプ」のホントの意味も分かっちゃいないんだろうけれどね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはネットでまともな議論を交わすことが出来るんだろうか?

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