子どもにとっての母性と父性
あんたは母性だとか父性だとかってジェンダーに伴った家族観について考えをめぐらしたことがあるかい?
ちょいちょい書かせてもらっている龍とそばかすの姫って作品について調べてみると「従来の母性を中心に据えた女性像が時代錯誤」的な批評を目にすることがある。
確かに「女性の社会進出」なんて言葉が日常的に使われている今という時代では母性って言葉が時代錯誤だって意見が出るのは理解できる。
たださ。
母性ってそう言う流行的なものなんだっけ?
今回は男女が同じ様に働くことを求められている現代における家族の中でのジェンダーの意味について考えてみる回だ。
もぉ、これ以上ないくらいに答えが出ない話だけれども、付き合ってくれよな。
俺たちが享受してきた母性と父性
俺たちオッサン世代にとっては、この母性と父性ってのはメチャクチャあやかってきたものだと思うんだ。
俺たちの親の世代って、父親が働いて稼いで母親が家庭を守るって役割分担が出来ていた最後の世代だと思うんだよ。
高度成長期で仕事をやればやるほど成果を個人が享受できるって状態は、そう言う家族の中での役割分担を出来るほどの余裕をもたらすことが出来たわけだしね。
俺の場合は、父親の年間休日が年に数日(土日含めて)って感じの文字通り馬車馬のごとくに働いて、母親もフルタイムの仕事を抱えながら毎日の家事と俺たち子どもの勉強の面倒を見るって言う環境で育った。
なんつーか、俺の両親はホント超人だと思う。
今の俺とは比べ物にならないほど働いていたのに、それでも母性も父性もきっちりと俺に提供してくれていたんだって感じるからね。
女性が家庭を守るという価値観
で、周りの家を眺めてみると、俺たちが子どもの頃って今よりも専業主婦と呼ばれる立場の女性って多かった印象があるんだよな。
その結果として女性が子どもに向き合う時間は今よりも多かったんじゃないかって思ったりもする。
その意味では俺たちの世代は今の子どもたちよりも多くの影響を母親から受けているってことになるのかも知れない。
で、そんな俺たちの世代が世の中を背負って働くようになった現在。
自分たちが子どもの頃に享受してきた母性を女性像として感じつつも、「女性の社会進出」の名のもとに、その女性観は時代錯誤だって意見が散見される様になってきている。
この女性観については男性が持っているってだけじゃなくて、女性も持っているものだと思うんだ。
だって、俺たちが子どもの頃の環境って、俺たち自身の性別とはなんにも関係がないからね。
でも状況がドンドン変わっていき、母性を女性像の中核に据えている感覚は時代に合わなくなってきているってのは現実だと思う。
では、今の子どもは母性を受け取らないで育つことで問題は起きないのか?
今の子どもが受ける母性と父性
今の子どもが俺たちが受けてきた母性と父性を受けられないことに問題があるのかって言われれば問題あるって気はする。
ただ、時代の変化スピードがえげつないことになっている現代では今この瞬間の正解が1年後には不正解になることも普通に起きる。
その上で変わらないこともあるとも思う。
その変わらない部分を子どもたちに伝えることができれば良いってわけだよな。
じゃあ、俺たちが享受してきた母性と父性の変わらない部分って何なのか?
母性によって子どもが得るものって「感情」で、父性によって子どもが得るのは「建前」なのではないかって思ったりしないかい?
どんだけ時代が変化しても「感情」と「建前」は俺たちの生活と切り離すことは出来ないと思う。
「感情」は俺たちがヒトという生き物である以上、絶対に切り離すことは出来ない。
そして「感情」の赴くままに行動していたのでは社会生活を送ることが出来ないので、そのインタフェイスとして「建前」という道具を使う。
自分がどう感じているのかを具現化することを母性によって育み、その感じたことをどう伝えるのかの方法を父性によって育む。
場合によっては母親一人で母性も父性も担うこともあるだろうし、父親一人で母性も父性も担うこともあるだろう。
いずれにせよ、子どもが自己を認識して社会とつながるって本当に基本の部分を育むのが親の役目ってことなのかも知れないな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは子どもたちがヒトとして成長するために母性と父性という性質をうまく伝える事ができるんだろうか?
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