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「希望」の捉え方

あんたにとって、誰かに言葉をかけるってのはどんな意味を持つんだろうな。

俺たちは多かれ少なかれ誰かに声をかけるし、誰かに声をかけられながら日々を過ごしているんだけれど、その言葉一つひとつについて深々と考えることってレアだよな。

この情報過多な世界のなかをさ迷い歩いている俺たちにとっては、その
言葉に集中力を傾けるってことそのものが非常にギャンブルチックな様相を呈する感じもする。

それでも俺たちはヒトの言葉に耳を傾けるし、ヒトに言葉を投げ掛け続けているってのがあるじゃんか。

今回は「ミヨコそこに座んなさい」企画に乗っかってくれたとある作品から言葉について考えて見る回だ。

もし、なんか感じるところがあったなら、あんたもこの企画に乗っかってみたり、作品を世に産み出したみんなにからみにいったりしてみようぜ。

ミヨコと見知らぬヒト

今回取り上げさせてもらうのはこの作品だ。

春永さんはnoteのつながり経由でこの

#ミヨコそこに座んなさい

企画にたどり着いてくれたそうだ。有り難いこっちゃ。

で、この春永さんの紡ぎ出したこの物語には二人の登場人物が現れる。

見知らぬヒトとミヨコの二人だ。

まずざっと読んでみると、なんとも言えない不思議空間が描き出されていることをあんたも感じると思う。

ざっくり言えば見知らぬヒトがミヨコに唐突にからんで、唐突に去っていくって物語だ。

これさ。
あり得ないようなシチュエーションを描きながらも、なんとも言えない既視感を肌触りとして感じないか?

なんなんだろうな?って考えてみてなんとなく腑に落ちたのは「これ、noteだとかのSNSでの人間関係でありがちなパターンじゃね?」ってことだ。

SNSでの情報のやり取りってのは、なんつーんだろう?ドライでありウェットなんだよな。俺の感覚だと。

SNSで知り合いになったヒトとあって話をすることも普通にあるけれど、大抵の場合は、その相手のヒトがコミュニケーションお化けみたいなヒトで、いろんな意味で心の琴線にさくっと入り込んでくるようなヒトがいっぱい居るんだよな。

そういうヒトは話題の核心に音もたてずに切り込んでくるかと思えば、その立ち位置はお互いの距離感というものを絶妙にコントロールしてくるんだよね。

でね。
この見知らぬヒトに同じ空気を感じたわけよ。

そのある意味達観したようなキャラクター性にね。

この二人は「誰」なのか

で、その空気をまとった見知らぬヒト。
その空気から紡がれる言葉によって歩く力を取り戻すための扉を示されたミヨコ。

ポイントはチャップリン。

見知らぬヒトは決して「自分の言葉」で語りかけない。
ミヨコに必要なものは「自分の言葉」ではないと思っているようにすら読める。

なんだろう?
この見知らぬヒトのことを春永さんが大切に思いながら、それと同時にたまらなく受け入れがたい何かを感じているんじゃないかって思ったんだよね。

そしてミヨコ。
見知らぬヒトの語るチャップリンについて受け入れもしなければ拒否もしない。

思うんだけれど、この物語では見知らぬヒトもミヨコも、なんならチャップリンですら肯定されていないように見える。

なぜか?

だって、誰も「歩きはじめていない」んだもんよ。

たぶん見知らぬヒトは歩いてきたヒトだ。
今は歩いているようには見えない。

チャップリンも歩いてきたヒトだ。
今は歩くことは出来ない。お亡くなりになっているからね。

唯一あるき出す可能性が残されたのはミヨコ。
でも、この物語の中では歩きはじめていない。

そこから俺が感じ取ったこの二人の正体。
つまりは「停滞」の象徴なんじゃないかってことだ。

おそらくこの「停滞」は春永さんが最も否定したいことなんだと思うんだよね。

だからこそミヨコにはその状態からの脱出と言う一縷の望みをかけているんだと思うんだ。

つまり、ミヨコはこの物語における「希望」ってわけだ。

「希望」は「呪い」か「福音」か

ところが、俺はもう一つ考えちまうわけだ。
「希望」って良いことか?ってさ。

パンドラの箱の話って知っているかい?

パンドラと言う少女がこの世の災厄が閉じ込められていた箱を開けちまうってあれだ。

パンドラの箱の底に残っていたもの。それが「希望」なんだよな。

一般的にはこの話は「最後に希望が残った」という救いの物語として読まれていると思う。

でもね。この「希望」が残っていることってのが実は「呪い」じゃないかって話もあるんだよな。

下手に希望が残されていると、ヒトは「諦められない」からね。

もしかしたらこの物語は「もがき続ける」ということについて考えろと言ってくれているのかもしれない。

もがき続けた結果。
ヒトは「見知らぬヒト」のようになるかもしれない。
ヒトは「チャップリン」のようになるかもしれない。
ヒトは今の「ミヨコ」の場所に戻ってきてしまうかもしれない。

その全ての結末には喜びも悲しみも怒りも苦しみもみんな含まれていることだろう。

なあ、あんたはどう思う?

この物語からあんたが受け取ったのは「希望」という福音か?
それとも「希望」と言う呪いか?

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