感情が差分で受け取られる事実
あんたも日常の中にあふれている情報について何かを考えることってあるかい?
日常ってくらいだから、俺たちの感覚では多くの出来事が「なにも変わらない」と認識されるのが普通だと思う。
そりゃあ、明日の提案に向けて最終チェックとか、明日までにこのプログラム仕上げなきゃとか、締め切り絡みの刺激はあるけれども、それはあくまでイベントとして据えられているだけであって、言い換えればそれも日常的に大変に感じるふつうのコトってわけだ。
今回は日常に潜んでいる多くの情報について考えてみる回だ。
ちっと一緒に、感覚の整理をしてみようぜ。
日常に変化を感じられない理由
今回このことについて考える切っ掛けをくれたnoteがある。
Shogoさんのnoteだね。
この中で印象的なフレーズがあった。
日々の当たり前に感謝しながら生き続ける。決して簡単なことではないが、これができれば、毎日が幸せな気持ちで過ごすことができるだろう。
出典:上記note
これを読んでどう感じた?
確かに感謝し続けるってのは簡単なことじゃない。
それどころか、俺にとっては不可能に近い感覚がある。
なぜか?
ヒトという生き物が感覚を差分でしか捉えられない仕組で処理しているからだ。
ヒトが現状認識をするときに、例えば「腹が減った」って感覚があったとする。
その感覚そのものが少し前まで空腹を感じていないところに、突如発生した負の感覚を捉えたからだよな。
逆に言えば「空腹ではない」という感覚がなければ、俺たちは「空腹」という感覚を持つことすら出来ないってわけだ。
それは他の多くの感覚でも同じことが言える。
「なんか楽しいな」は「なんか楽しくない」からの差分で認識するし、「なんかきれいだな」は「とくにきれいじゃない」からの差分で認識される。
そして、ポイントだ。
俺たちはその差分が大きければ大きいほど、大きな感覚としてそれを認識する。
絶対値じゃないんだ。
減量明けのボクサーが食べるおにぎりと、俺たちがランチで食べるおにぎりじゃ意味が違うってのはわかるじゃんか?
差分を大きくするために必要なこと
なるほど、幸せだったり感謝だったりを大きく感じるためには、その直前に感じていた感覚との差分が必要だというのは、そらそうかもねって思ってもらったとする。
そして、その前提に立つとちっとめんどくさいことになる。
何しろ差分を大きくしていかなければ大きな幸せを感じられないので、俺たちは大きな幸せを手に入れるために、俺たちが抱えている何らかの不幸なり課題なりに目を向けないと行けないってわけだ。
これは逆もまた真で、俺たちが大きな幸せを感じた直後に課題なり不幸なりを感じると、それもまた大きな感情となって俺たちに襲いかかってくる。
じゃあ、できるだけ感情の起伏を小さくしていけば良いのかって言うと、その変化のない状態にヒトという生き物が耐えられる様に出来ていないのも事実だ。
どうすれば良いんだろうな?
そう考えると、俺たちが社会で生活していくためには、この感情ってやつに対する感度を保ちながら、その表現方法について工夫していくしかない。
そらそうだ。
感情ダダ漏れのやつが社会でまともに受け入れられるはずがないもんな。
だから何かに対して感じた怒りも悲しみも、喜びも笑いも。
そのすべてを真正面から受け止めながら、その表現を工夫する必要があるわけだ。
何?感情を表に出さないように抑制していたら、保たないだろって?
違う違う。表現の抑制じゃなくて工夫だ。
例えばこのnoteというSNS。
実に多くの感情が表現されている。
喜怒哀楽のすべての感情が文字で、絵で、音声で、動画で描かれている。
これってさ、感情をすり減らすことなく、その感情を伝える工夫をするにはうってつけな環境だと思わないかい?
表現を続けることで、風化しがちな感情は形を変えて存在し続けるし、形を変えた感情を作り上げることで、あんたの中の感情はより具体的になっていく。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは感情を研ぎ澄ますために発信という方法を使っていけると思うかい?
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