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感情と意思と文章と

あんたもあんた自身の言葉を発信し続けているかい?

俺の文章にも読んでくれるヒトは居はするんだけれども、メチャクチャ大量のヒトが読んでくれているわけじゃない。

いわゆるSEO的な工夫もしてないし、読んでもらうための文章の内容以外での工夫もあんまりしていないと思う。

ただ、俺が触れ合うヒトに名刺代わりに読んでもらえるものがあれば、そこに意味があるんじゃないかって思って書いているってのがある。

ただ、それだから。
それだからこそだ。
読んでくれたあんたに向けてきっちり向き合っていかないといけないってのはある気がするんだよな。

今回は俺が発信をする意味を言葉にしてみようって回だ。

まあ、独りよがりな話かもしれないけれど、付き合ってくれよな。

感情と文章と

今回このテーマについて考える切っ掛けをくれたnoteがあるんだ。

かつしたさんは文章を書くってことの存在価値をわかりやすく伝えてくれている。

キーワードは感情だ。

俺たちは読み手として誰かの感情ってやつを追い求めているってことかもしれない。
確かにオッサンは日々の生活では感情ってやつを封印して生きていかないといけない。
感情を垂れ流しにしているんでは仕事がママナラナイってのはあるじゃんか。

その分、自分の時間を持てたときには自分の感情ってのを大切にしたいって思いが出てくるのは自然だと思うわけよ。

だからこそ、俺たちオッサンは涙が止まらないような物語を好んでいるってのがあると思うんだよな。
ちょっと前の金曜ロードショーでヴァイオレット・エヴァーガーデンが放送されて初見で鼻をすすりながら見ていたオッサン代表としては、確信に近い。
#泣けたべ

感情を伝える意思

でだよ。

俺たちは日々発信を続けているわけだけれども「感情を込めた文章」ってやつを書けているんだろうか?

たぶんだけれども、俺の場合は込めているのは感情じゃなくて「意思」なんだよな。

そして、誰かの意思ってのは消化することにメチャクチャ労力を必要とする。
何しろ自分の中にある意思とは違うのがほぼ確実で、それを否定するにしろ受け入れるにしろ、俺たちは多大なエネルギーを必要とするわけじゃんか。

何?感情と意思の違いがわからんぞって?

俺もうまいこと言葉にできない気がするんだけれども、「自分が納得するかどうか」ってのが違いかなぁ。
感情は俺自身もそうなんだけれども、自分でコントロールすることは出来ない。

怒りも悲しみも喜びも全然コントロール出来ない。

それに対して「意思」は自分の意図ありきで生まれるもんだと思うわけよ。

そう考えてみるとだよ。
感情を自分の発信に込めるってのは結構難儀な話だよな。

なんつっても自分のコントロール外の要素なわけだから。

思ったまま、感じたままに文章を書くってのはそれはそれで価値が大きいと思う。
ただ、俺の場合は俺の感情ってのがまるで猛獣のように俺には扱い難いものだって印象がある。

だからこそ、俺はその感情を意思という鎖で制御して文章に変えていっていると思っている。

まあ、扱いきれているとは思えないところはあるんだけれどさ。

そう言う感覚があるが故にさ。
自分の中に沸き起こった感情を誰かに伝えられるように表現するってのはメチャクチャ難易度が高いと思うわけよ。

俺たちが何かを見て泣いたり怒ったりしたことを、誰かがわかるように表現するのって正解がわからないくらい難しくね?

感情ってのは伝わるように表現するのがメチャクチャ難しいってのが実感なんだよね。

難しいって言う前提があってこそ、感情を込めた文章ってものに対する価値が出てくるのかもしれないね。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは自らが制御できない感情をストレートに発信するってのが求められているのか?
それとも自分の感情ってやつを整理して読み手に伝えることが求められているのか?

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