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俺たちが学ぶべきことを予測する

あんたにも子どもがいたりするのかな?

俺の家の息子は小学2年生。今は掛け算を絶賛暗記中だ。

俺たちが子供の頃もありとあらゆる習い事をしていたもんだが、そのあたりは今も変わりがない。っていうか、学びの範囲がいよいよ多角化してきている。

俺らの頃は想像もつかなかったプログラミング教室なんてものもあるし、普通に小学生は英語を学んでいる。

そうかと思えば空手のような体を使った学びもきちんとあり続けている。

今回は、俺たちの学びについて考えてみる回だ。

これから何を学んでいけばいいのか。そいつは必要があることだもんな。

学びという需要

今の世の中、本当に色々な学びを提供してくれるサービスが存在している。

くもんのような昔からある学びのサービスも、その実態を時代に合わせて変化させてきている。

知っているかい?くもんではフランス語まで対象にしているんだぜ?

インターネットが俺たちの生活に溶け込んできてから、俺たちの生活は情報にまみれることを余儀なくされた。

それは必然的に俺たちが世の中を解釈するための情報が増大してきていることを意味している。
俺たちはただ生きているだけでも、必要とされる情報が増えてきているってことだ。

ところが、俺たち自身はそんなに変わるわけでもない。

子どもたちについて言えば、学校のカリキュラムは文部科学省を中心として変革を進めてはいるものの、時代の変化スピードについていけているようには見えない。

そのスピードのギャップに対してケアするサービスが着々と勢力を伸ばしている。
さっき言ったプログラミング教室なんて最たる例だよな。

そうなんだよ。俺たちは、俺たちが生き残るための術を求め続けているってわけだ。

この先10年を予測するという難題

今この瞬間ですら、「学ぶべきこと」と「学べていること」には大きなギャップがある。

ありとあらゆる情報が巡り巡っている今という時代では、それも致し方ないことなんだろう。

でも、俺たちは諦めるわけには行かない。なんつっても子どもたちはこれから先の全くどうなるかわからない世の中で生き残っていかなければならないのだから。

ではこの先10年、どんなことが起きて、どんな能力が求められるのか?

そのニーズを先読みして、学ぶべきことを定めることが大切なはずだよな。

そのためには10年前と今を比べることが一つの手段だと思うんだ。

今から10年前。2009年。それがどんな時代だったのか。

日経平均株価の終値が7054円98銭。バブル崩壊後の最安値を更新。

民主党が政権交代で与党になった。

SMAPの草彅剛が公然わいせつ罪で逮捕。

日本の薄型テレビの普及率が50%を超える。

そういう時代だそうだ。

そのころはまだ、テレビというメディアをみんなで見ている時代だったと思う。
いまや、情報の主戦場はネットに移り変わりつつある。
芸能人についても、そのころはYouTuberなんてものは世間的には認知すらされていなかったように思う。

SMAPは解散し、民衆党は元の形を維持することも叶わずばらばらになった。

日経平均株価は2万円を超えてきている。

この変化を俺たちはどんな風に解釈すればいいんだろう?

一つだけ言えるのは、そのときに予想したことも会ったとは思うが、その予想を確信に変えていくことは困難を極めたってことだ。

その当時、株価が底を打ったなんてことを誰もが望みながら、誰も確信は出来ていなかった。

それはそうだ。確信できないから未来というのだから

あんただってそうだろう?

俺たちが出来るのは予測であって、予言じゃない。
でもその予測をすることだって意味のないことではないと思うんだ。

10年前を振り返ってみて、一つのトレンドが見えてくる。情報の発信元の拡散だ。
SNSがこれほど使われるように変化したのだから、情報の発信元はこれからもどんどん拡散していくんだろう。

いろんなやつがいろんなことを言う社会では、その情報の価値ってやつを吟味するってことそのものに価値が生まれると思うんだよな。

ここのnoteを見てみても、きちんと調べて書いていることと、自分の感覚を表現しているものでは、その価値のジャンルが違う。
前者は客観的な価値を、後者は主観的な価値を提供しているからね。

大事なのは、誰が何の価値を求めているかってことを考えて、その価値を求める人にその価値の在処を伝えるってことなのかもしれないな。

ではそれはどうやって行けば出来るようになるのか。

俺たちは俺たちが日常に触れていることから、そのお宝を拾い上げていかなきゃいけない。

なあ、あんたはどうだい?

俺たちは、誰かにとってのお宝を誰かに届けることが出来るんだろうか?

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