物語を作ること。物語を味わうこと。
あんたも何かしらの物語を日々楽しんでいるかい?
俺たちはびっくりするくらい多くの物語に包まれながら生きているって思うんだよね。
テレビのドラマだってそうだし、アニメだってそうだし、マンガだってそうだ。
なんなら、商品開発のエピソードしかり、西野亮廣さんのえんとつ町のプペルにまつわる出来事そのものが物語だ。
そして、その物語には読者としての俺たちがいて成り立つって側面があるよな。
今回は、読者を満足させる物語ってやつについて考えてみる回だ。
ちっとばっかし、俺の思考の軌跡に付き合ってくれよな。
物語について考える切っ掛けをくれたnote
今回、物語について考える切っ掛けをくれたnoteがあるんだよ。
それがこれね。
ねむるまえにさんはいわゆるアマチュアのアニメ製作者さんなんだ。
パラパラ漫画のアニメーションを作ったりして、俺たちに見せてくれたりするんだよね。
ちょっと音が印象的な動画だよなぁ。
で、そのねむるまえにさんが物語について書いてくれたのが上記のnoteってわけだ。
このnoteの中でねむるまえにさんはこんなふうに書いている。
途中まで面白かったのですが、正解はAかな、Bかな、いやC、Dもあるぞ、とたくさん匂わせておいてからの、ラストは全く違うEでした〜ってなった作品があって、えー意外でびっくりしたし面白かった!とはならなくて、なんでだろうとEのラストへの何かがなかったか確認したけど、見つけられなくて。
出典:ねむるまえにさんの上記note
なるほど。謎解き系の物語についての考察だ。
謎解き系の物語では、制作側からするとある意味いかにして読者をだましきれるかって要素がどうしても付きまとうもんだと思う。
「はいはい、こうなんでしょ?」って思わせちゃうと読者なり視聴者が逃げていくって普通に思うもんな。
だからこそ制作側のヒトたちは必死で物語の結末にいたる要素を隠しきって行くわけだ。
ところがその結末に至る要素が「描かれていない」ってなると意味が違う。
そんなの、ジョーカーなしでババ抜きしているようなもんだからな。
既存の物語の仕組みを見てみる
じゃあ、実際、俺たちが好みにしている物語はどんなふうに結末への伏線を隠しているんだろう?
まあとりあえず、俺たちが共有しやすい物語としては、全文無料公開されているこの物語だろうな。
えんとつ町のプペルは全文公開されているのでこの物語を例にとって伏線の表現方法を見直してみようと思うんだ。
この物語の結末は「物語の主人公であるプペルは同じく主人公であるルビッチの父親だった」なわけだけれども、そこに至るまでの物語でどんな表現で伏線を隠しているんだろう?
「ルビッチはボクをさけないね」
「なんだかなつかしいニオイがするんだよ。ぼくがすてたパンツでもまじってんじゃない?」
出典:えんとつ町のプペル
直接的な表現としては、みんなにさけられているプペルと一緒に遊んでいるルビッチがなぜプペルと一緒にいるのかってことを説明するセリフだ。
これは結末である「プペルがルビッチの父親だ」ということをわかっていれば伏線として認識できるけれど、そうでなければえんとつ掃除をしているルビッチが同じく汚れにまみれているプペルと仲間意識を持っている事を照れ隠しのように表現したセリフとしても読み取れる。
かと言って、結末を知らなければこの伏線に気づけないかっていうとそうでもない。
夜空をかける配達屋さんが、煙をすってせきこんで、
配達中の心臓を、うっかりおとしてしまいました。
出典:えんとつ町のプペル
冒頭のこの記述から、プペルが元人間だってことは想像できなくはないんだよね。
プペルは元人間⇒懐かしい匂い⇒ルビッチには父親がいない⇒プペルはルビッチの父親
こう言う思考を巡らせることは不可能じゃないと思うんだ。
この気づけそうで気づけない絶妙なさじ加減ってのが物語の伏線には求められているってことなんだろうな。
そんな制作側のものすごい工夫で俺たちは物語を楽しませてもらっているってことなわけだ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは、その制作側の全力を受け止めることが出来ると思うかい?
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