不機嫌の表現をコントロールする
あんたにも不機嫌になることってあるかい?
俺の中で信じているひとつのコトに感情の発生にはヒトの意思は介在できないってのがある。
怒りたくて怒ることはできないし、悲しみたくて悲しむこともできない。
そういう感情を沸き起こらせるような環境だったり情報に自分をさらすことで感情を起こすことは出来るかもしれないけれど、それはあくまでその状況にヒトという生き物である自分が反応したにすぎないって考え方ね。
その考えをもった自分がこんな記事を読んだんだ。
不機嫌はヒトの罪。
なかなかに刺激的なタイトルだよね。
今回は不機嫌って状態について考えてみる回だ。
ちっと、自分の機嫌ってやつについて考えてみようぜ。
不機嫌の実態
上の記事を書いてくれているアドラー心理学サロンさんはTwitterで1万いいねを日常的に獲得なさっている御仁みたいだ。
シンプルにスゴい。
その御仁が日常を越えた12万いいねを得たのがこの不機嫌にまつわる話なんだそうだ。
みんなが不機嫌ってものに悩まされているってことなんだろうね。
たしかに記事を読ませてもらうと、セルフコントロールの大切さみたいなものを感じさせてくれる実に素晴らしいものだった。
そこでふと考えるわけだ。
あれ?不機嫌に「なる」コト自体は俺らの意思を反映できなくね?って。
例えばさ。
自分の話を聞いていたヒトが突然声をあらげて反論してきたとするじゃん。
そうしたらその反論の論理性を検証して、自分の意見との差がどこにあるのかってのをさぐって返答する。
まあ普通のアクションじゃん。
ところが、すでに「声をあらげる」という行動をとることで自分の不機嫌を表現してしまったヒトにとっては、その意見の違いがどれだけ合理的であっても、更なる不機嫌を呼び起こす材料にしかならないんだよな。
だとすれば、「声をあらげる」という行動をどうすれば抑制できるのかってのを考えればいいのかね?
つまりは不機嫌をどうすれば「表現せずに済むのか」って話だね。
感情表現の意味を考える
大前提として、感情の発生は意思ではコントロールできないってのが俺の中にある。
でも、感情に伴った表現は意思を介在させることが出来るってのも同時にある考えだ。
つまりセルフコントロールってのは自分の感情表現をコントロールするってことなんだよな。きっと。
アドラー心理学サロンさんが書いてくれている通り、不機嫌の「感情表現」がもたらすデメリットは絶大なものがあると思う。
俺自身がワカゾーだった頃はその不機嫌を表現するコトによる周囲への影響ってのが自分自身の影響力だって思っちまってたことがあると思う。
今考えてみれば壮絶に迷惑な自己表現だよな。
で、不機嫌に対する表現のコントロールを完璧にしているってヒトってどんなヒトだろう?って考える。
まあ、フィクションだけれどさ。
古畑任三郎をふと思い出すわけだ。
数々の感情を基に引き起こされる事件を徹底的にロジックでひもといていく姿はある意味で感情表現コントロールの極みだと思う。
そんな古畑任三郎というキャラクターが唯一感情を発露したように描かれている話がある。
木村拓也さんが演じていた研究者が爆破テロを起こそうとした話だ。
後にも先にも、古畑任三郎が暴力を振るったってのはこれしかないらしい。
思い返してみると、この感情表現は意図的なものだったように思えるんだよね。
なぜかって?
だって、犯罪の全容がわかった時点で、俺の記憶では唯一「反省していない」犯人だったと思うのよ。木村拓也さんが演じていた犯人って。
つまりだ。
あの話で古畑任三郎が表現していた感情表現ってのは「怒り」を表現してたんじゃないんだ。
多分「叱って」いたんだよな。
自分の怒りを相手の役に立てる
そう考えると、感情表現としての不機嫌の活用って道ももしかしたらあるのかもしれない。
ただ、そのためには実に巨大な精神力を必要とする話だよな。
だって、怒りという感情が俺たちの行動にもたらす影響ってのは計り知れないものがある。
それをコントロールするってのは誰でも出来るもんじゃない。
すべてのヒトが古畑任三郎になれるわけじゃない。
でもさ。
それでもさ。
俺たちは怒らずに「叱る」ことが出来るようにならないといけない。
それができなきゃ、今の若者や子どもたちが幸せになるチャンスをうばっちまうことになるもんな。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちはどうやれば古畑任三郎のようにうまく叱ることが出来るようになるんだろう?
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