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伝えられないこと

あんたはなにかに迷うことってあるかい?

俺なんかはしょっちゅう迷いまくっているので、そのうち肩書が冒険者になるんじゃないかってくらい迷っている。

そうか、迷子がオッサンになると冒険者になるんだな。

今の迷いは、息子と話してたことがきっかけだ。

息子は俺が投げかけた問に対して、非常にシンプルに回答をした。
そのシンプルさは俺の中に迷いを生じさせる。

今回は、この俺の迷いを紐解いて、俺たちが本質的に抱えている課題について考えてみる回だ。

あんたも大人なら付き合ってくれよな。

息子は「分からない」と言った

我が家はたまに息子と俺との二人きりで過ごすことがある。

まあその何十倍もの時を母親と過ごし、それと同じくらいを外の世界で過ごしているんだとは思うが、それでも二人きりの状態で過ごす。

そんな時は、俺自身が無口なのも手伝って、息子も黙っている。

母親にはものすごくニコニコしながら色んなことを拙い言葉を使って一生懸命に伝えているんだが、どうも俺には「おいそれと話してはいけない」って感じがあるのかもしれない。

もちろん、頭ごなしに息子のことを否定したりしないし、普通に話してはいる。
それでも、息子は俺といるときは寡黙になる。

特に不快そうにしているわけではないので、俺とのコミュニケーションは言葉を選ぶ癖がついているってことなんだろう。

息子は小学2年生。

ようやく普通に言葉を使えるようになってきたって年頃だ。

昼食を摂りながら、何ということもなく俺は息子に問うてみた。

「今、何が一番面白い?」

息子のシンプルな言葉を待つ。

「……わかんない」

そうか、わからないか。
自分が小学2年生だったときのことを思い出そうとする。

あんたもちょっと思い出してみてほしい。自分が小学2年生だったときのことを。

多分、俺は学童保育に通っていて、当時のバラックみたいな建物に荷物をおいて校庭を駆けずり回っていたような気がする。

登り棒を誰よりも速く登ることを競い合っていたような気がする。

金魚すくいのポイがやたらに丈夫でたくさんの金魚を捕れたことがあった気がする。

日本酒の蓋をみんなでひたすらに集めていて、祖父が近所の酒屋に掛け合ってくれて大量の蓋をゲットしてもらった気がする。

要するに俺も何が楽しいのかわからずに小学生を満喫していたってことなんだと思う。
誰も、俺に「何が楽しいのか」という本質を問うことは無かった。

そして、俺の息子は今ハマっているドラゴンクエストが楽しいというわけでもなく、ヒカキンが楽しいというわけでもなく、お気に入りのワンパンマンが楽しいというわけでもなかった。

「わかんない」

息子はそう言ったんだ。

「わからない」のは俺たちオッサンも同じ

実際の所、俺たちオッサンも同じ問を投げかけられたらなんと答えるだろう?

例えばnote。

毎日、黙々と記事をアップしてはいるものの、それが「面白い」のかと問われると、少々複雑な感覚がある。
面白いのは面白い。自分の中の感覚を言葉に落とし込む作業は、ある種の快感をもたらすような気がする。

それと同時に、結構しんどい。
毎日1時間程度の時間をこのnoteのために捻出する必要があるからな。

そうなんだよ。どんな「面白い」も何らかのコストをかけて行く必要があることを俺たちオッサンは知っている。

そして、その「面白い」がそのコストに見合うものなのかってやつは、結構難しい問題だ。
何しろ「面白い」を数値化することなんてほぼ不可能なんだしね。

結局はその「面白い」は自分の主観で、なおかつ数字に出来ない。
つまりあんたに俺の「面白い」を客観的に伝えるすべがないってことになる。

そんな客観性がない「面白い」に対して「今何が一番面白い?」という問はたしかに押し黙ることしか出来ない問なのかもしれない。

それでも面白いを追い求める意味

じゃあ、他人に伝えることが出来ない「面白い」は意味がないのか?

それは断じて違うよな。

結局、俺たちは自分自身の主観ってやつで世界を捉えている。
俺たちはそもそも世界を客観的に捉えては居ないんだよな。

各国のGDPの比較をしてみたり、世界全体の貧困が実は緩和されているというデータを見たりと客観的な数字で世界を把握しようとしてはいるものの、俺たちはどうやっても最終的に世界を「なんとなく」捉えようとしてしまう。

日経株価がいくらになったってことよりも、カンボジアに行った時のものも言わずに観光客の脇をトボトボと歩いている物乞いの少女のことのほうが遥かに俺にとって意味を持つ。

でもその意味ってやつについて、俺はあんたと正確に共有する術を持っていない。
俺の中にあるその少女の圧倒的な存在感について、俺はあんたに説明する方法が今のところ無いんだ。

それでも、俺の中に残っているカンボジアの少女には意味がある。
それだけは何故だか知らないけれども、確信に近いものがある。

それは俺たちが「感じた」ということそのものに意味があるってことなんだろう。

息子は「わからない」と言った。

でも「わからない」ことは決して悪いことじゃない。
「わからない」からこそ、俺たちはその「面白い」を表現する方法を模索し続けているわけだからね。

なあ、あんたはどうだい?

あんたの「面白い」ってなんだい?

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