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結果ってなんだ?

あんたにもグッとくる質問ってやつがあるかい?

facebookでやり取りさせてもらっているオオクボミヒカさんがこんな質問を投げかけてくれた。

シンプルで強力な問いかけだと思うんだよね。
「結果ってなんだ?」
思わず反応してしまいそうな問いかけじゃないか?

とりあえず、脊髄反射をしてしまう前に今回はグッと堪えてみた。
きちんと考えてみたいと思ったんだよね。

今回は、この「結果」というものについて考えてみる回だ。

チットばかり、一緒に人生さまよってみようぜ。

「結果」という言葉

結果というと、あんたはどんなイメージがあるかね?

そのイメージを紐解くために「結果」という言葉を俺たちが普段どういうふうに使っているのかを振り返るところから始めてみようか。

「結果を出せ」
「結果がすべてだろ?」
「結果としてどうなんだ?」

なるほど。これらの言葉から俺がイメージする結果というもの。
それは「追い求められるもの」ってことなんだろうな。

資本主義という神話に則って動いている現代の世界観においては、結果という言葉は「利益」だったり「売上」だったりする。
事実、俺たちのサラリーマンとしての成果評価については、この利益と売上って言葉はついてまわる。
コレ以上無いくらいにシンプルな評価基準だからな。

でも、ちっと考えてみる。

確かに利益と売上ってやつは結果だとは思う。
でも、それは結果を推し量る指標であって、結果そのものじゃないんじゃないかって感じる俺がいた。

突き詰めれば「お金ってなんだ」って質問に突き当たるのかもしれない。

信用経済という言葉

お金は俺たちの結果を数字にしてくれるバロメータだってことだとすれば、そのお金は何を数字にしてくれているのか。

お金ってやつは俺たちヒトが手に入れた最も巨大な虚構の一つだよな。
お金そのものには価値が無いのに、俺たちはそのお金にまつわる「信用」を限りなく高い価値があると信じて日々を過ごしている。

太古の昔、石貨という巨大な石のお金があった。

この巨大な石のお金をどうやって使っていたかあんたは知っているかい?

これだけ大きいとこのお金そのものを受け渡しすることすら難しい。
なので、この石のお金は実際には動かされることはほとんどなかったらしい。

ヒトはこの石貨を動かす代わりに、「この石貨は俺のもの。でもお前からこれを買うためにこの石貨の所有権をお前にわたす」って言って、物理的には何も変わらないんだけれど、所有権という目に見えない「信用」をやり取りしていたっていうんだよな。

つまりお金ってやつは「信用」そのものなわけだ。

「結果ってなんだ?」

そうやって考えてみた上で、あらためてオオクボミヒカさんの問を考える。

結果とはお金によって評価される。
お金とは信用を数字にしたものである。
つまり結果とはヒトからの信用である。

となるよな。

俺たちはヒトから信用を勝ち得るために日々四苦八苦しているってわけだ。

当たり前、かつシンプルな答えだな。
でもさ、俺たちはどうしてそんなに他者の信用ってやつを欲しているんだろうか?

その問には、ここ最近読んだ本の中ではこの本が答えを導き出してくれると思う。

言わずもがなのサピエンス全史だね。

俺たちヒトは、他者と協力するってことを「共通の虚構」を信じることで成し遂げてきた。

その協力するって力はすごぶる巨大で、実際、この数千年というごく短い期間に俺たちヒトはこの地球をかつてない姿に変貌させてしまった。

天を貫く摩天楼も、広大な農地も、轟音を伴って空を駆け巡る飛行機も、俺達が虚構によって協力できた結果得た力だ。

それらの圧倒的な価値は俺たちが疑う余地すら無い。

なるほど。なら、オオクボミヒカさんの問への最終的な答えはこうだ。

結果とは俺たちの協力によって生み出される価値だ。

つまり、結果は俺たち一人が出すものじゃない。
価値というものが物理的に観測できない虚構である以上は、その価値を共有するということそのものが「結果」につながる。
なぜって?
共有されない結果は評価につながらないからな。

価値を共有するためには、その価値をともに作り上げる必要がある。
な?結果ってやつは一人では作り上げることが出来ないものってことになる。

だから、俺たちは今日も「誰かと何か」をやっているってことなんだろう。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは「結果」を作り上げられるんだろうか?

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