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木下都議が犯したミスに対する感覚

あんたも木下都議が選挙期間中にやってしまった無免許運転と当て逃げ事故のニュースを眺めているかい?

シンプルにあれだけの事件を起こしたんだから普通に辞職ってのが自然な流れだと思う中で、木下都議は都議を辞めずに今まで来ている。

それに対して、こんなニュースが出てきている。

今回はこのニュースを眺めて感じた違和感のようなものについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちの悪を廃するって感覚を見つめ直してみようぜ。

木下都議が抱えた天秤

そもそもなぜ木下都議は当て逃げをしてしまったんだろう?

シンプルに状況判断がその場ではうまく出来なかったってのは想像できるにしても、損得勘定ってのが働いたってのも想像に難くない。

つまり人身事故を選挙期間中に無免許運転状態で起こしたとなったならば、そのことが明るみに出た状態では都議選挙で当選することは多分難しかったってのは現実としてあると思う。

そうしたら、自分を都議として議会に送り込もうと一緒に頑張ってくれている仲間に申し訳ないって感覚が彼女を支配したとしても、それも普通の感覚だとも思う。

でも、当て逃げをしちゃいけないって認識はきっちりあったはずだと思うんだ。
その法律を守るという政治家にとって最も原点であるはずの感覚と、仲間を裏切れないという感覚。
さらには自分の立場の保身という感覚を天秤に乗っけた結果が今の状況だと思うんだよね。

何?そんな天秤にかける時点で都議失格だって?
そりゃまあ、そうかもしれない。

再起不能という言葉

その上で、もう一つ要素を感じたんだよね。

今の世の中は落伍者の復活の道がないってことをね。

始まりは無免許運転という木下都議自身の「甘え」にあったのは間違いない。
運転という技能には変わりがないのだから問題ないだろうという認識は甘え以外の何物でもない。
法律を前提に物事を調整する政治家という存在にとってはそれは致命的だと思う。

ただ、そのことだけなら、俺たちは木下都議が都議を辞めて当たり前って感覚を持っただろうか?

当然一部のヒトはそう思うと思うけれども、「ちゃんとしろよ」で終わるヒトも一定数いそうな気がするよな。

問題はやっぱり「当て逃げ」なんだよな。

本来であれば、人身事故を起こした時点で現場で事故相手の救護をしたり然るべき罪を償う行動をしているのが正常だと思う。

でも木下都議はそれをせず逃げた。

逃げずにいれば今回は当選できなかったにしても次回ってのがあったかもしれない。
でも資金的な事情から次回も選挙に打って出るってのは結構なハードルがあるのも現実だと思う。

でもそれにも増して、今の日本を取り巻いている状況ってのがある気がするんだ。

つまり、過ちを犯したヒトを二度と許さないという風潮だ。

最初に取り上げたニュースを見て、いの一番に思ったこと。
なんで「再起不能」なんて言葉を使うんだってことだった。

無免許運転をしたっていう判断ミス。
人身事故を起こしたっていう操作ミス。

この時点で俺たちはミスを犯したヒトを二度と認めないって感覚。

その感覚が大きな意味では日本の発展を阻害している様に思えたんだよ。

挑戦の価値

木下都議は現実として人身事故を起こしたあとに「当て逃げ」してしまっていて、かつ選挙期間中にその情報を有権者に意図的に伝えなかったことにより当選を勝ち取った。

このことは都議選挙の有権者にとっての冒涜だし、都議を辞職するってのが必然的な流れだとは思う。

で、仮にそうなったとして、次の都議選が行われたときに、木下都議に票を入れるヒトがどれだけ居るのか?

少なくとも俺は入れないと思う。
だって、ルールを守れないヒトに都の運営を任せられるわけ無いって思っちまうからね。
その意味では俺自身が「罪を憎んで人を憎まず」って境地に至れていないってことなんだと思う。

俺自身を含めたこの感覚って色んなことに挑戦して失敗してきたヒトを否定する感覚だって意見も普通にあることだと思うんだ。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは可能性と秩序を天秤にかけたときに、どちらに天秤が傾くことを望んでいるんだろうか?

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