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楽しむためのコミュニケーション

あんたはヒトと会うのが得意かい?

俺の場合は別にヒト嫌いってわけじゃないんだが、ヒトと会うのは得意な方ではない。
例えば仕事で打ち合わせをしなければならないようなケースはわりかし得意な方かもしれない。
決められた時間内に決めるべきことをキッチリと決める。
そういう時の過ごし方はわりかし心地よい焦燥感がある。(そんな言葉あるか?)

でも、これが全くのプライベートで完全に「ただあっておしゃべり」みたいなシーンだと、俺の中ですごくハードルが上がるんだよね。

今回は、そんな不器用オッサンのコミュニケーションについて考えてみる回だ。

いい年したオッサンが、コミュニケーションでもたついている様を楽しんでくれよな。

お隣さんとのコミュニケーション

ご近所付き合いって大切だよな。
なんつったって、ご近所なんだから良好な関係を作り上げたいって思うのは、誰だってそうだ。

でも、ご近所ゆえの軋轢のようなものも普通に起きる。
我が家の植木がお隣さんの庭に侵食していってしまったり、お隣さんの家の中の怒声が聞こえてきたりと色々だ。
きっと、我が家の怒声も筒抜けなんだろう。

そんな背景があっても、顔を合わせればにっこりと笑顔を作って挨拶をする。
きっとお隣さんは「ああ、めんどくせぇなぁ」くらいに思っているかもしれない。だって、俺はお隣さんが腹を抱えて笑うような事も言ってないし、お隣さんが興味を抱くような世間話も出来ていないしね。
それでも、お隣さんは笑顔を作ってくれる。感謝しかないよな。

その笑顔に対して、俺は何も報いることが出来ない。
笑顔で返すくらいのことはするが、相変わらずおもしろいことも言えず、役に立つ情報も伝えることが出来ていない。

なぜか?
お隣さんと積極的に俺が関わろうとしていないからだ。
なぜ関わろうとしないのか?

コミュニケーションをするために必要なもの

ヅカヅカと自分のプライベート空間に入ってきてもらいたくないからか?
世間話に時間を取られるのがいやなのか?

そういう物理的な影響を嫌っているわけじゃない気がする。
多分、俺は本質的に俺の個性ってやつに俺自身があんまり価値を見出していないことが原因なんだと思うんだよな。

つまり、自分ってものに自身が持てないから、人様と会話するなんておこがましいって感覚だ。

仕事の場合は、結果がついてまわるから、まだシンプルだ。
会社人になって、思ったのは学生時代に比べて「なんてコミュニケーションが楽なんだ」ってことだった。

会社の場合は、コミュニケーションの軸が普通に仕事になる。仕事の場合は、その仕事を成功させたいって共通の目的に対して「どうするか」をみんなで考える。
その考えるためのツールとしてのコミュニケーションなんだよな。

それに対して、学生時代のコミュニケーションの目的は違う。
お互いのことをよく知るためだったり、お互いで楽しみ合うためのコミュニケーションだ。

この学生時代のコミュニケーション。今でならプライベートでのコミュニケーションってやつに必要なもの。
それが楽しむ力ってことなのかもしれないと思う。

俺たちロスジェネ世代は生まれたときから同世代が大勢居て、ただ生き残るための選択と行動を迫られ続けてきた。
そこに必要なのは、「効率的にこなす」ことであって、「人生を楽しむ」ことじゃなかったんだよな。

楽しむためのコミュニケーション

じゃあ、オマイは誰とも話したくないって言うのか?って問われたらそいつは断じて否だ。

俺は色んなヒトがこの世の中にあると思っているし、そのヒトたちは俺が想像もつかないオモロイことをやっていると信じている。

そのオモロイ奴らとオモロイことが出来たらオモロイに決まっているからな。
問題は、その楽しむための心のようなものを、今この瞬間の俺が見失いかけているってことなんだろう。

俺一人で楽しむ方法はいくらでもある。
問題は、みんなで楽しむって経験から、俺自身が遠ざかりすぎているってことなのかもしれない。

だとすれば、俺はもっとみんなとコミュニケーションをしたい。
単純にヒトとの出会いを楽しみたい。

なあ、あんたはどうだい?

あんたは楽しむ心、どこかに置いてきてしまっていないかい?

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