「定年」という死
あんたは「定年」ってことについて、真剣に考えたことがあるかい?
俺の場合は、息子が大学を卒業する前に定年を迎える計算になるので、その意味では結構考えていたりもする。
「よーくかんがえよー♪ お金は大事だよー♪ るーる るーる るるるー」ってやつだ(伝われ!)。
でも、そういうお金とは切り離した意味で「定年」ってやつを考えたことは正直あんまりなかった。
それでも、それは時の流れに逆らえない以上は絶対にいつか来る未来だ。
今回は、この「定年」ってやつが俺たちに何を与えて、何を奪っていくのかを考えてみる回だ。
ちっとばかし重たい話かもしれないが、付き合ってくれよな。
「定年」を考えさせてくれたnote
今回、俺に「定年」を考える切っ掛けをくれたnoteがこれだ。
佐藤さんは広告や食などの本を執筆なさっている作家さんであり、コミュニケーション・ディレクターとして活動なさっているかただ。
コミュニケーション・ディレクターというのは伝える側と受け取る側のコミュニケーションGAPを改善するお仕事ってことらしい。
コミュニケーションのプロってことだね。
この記事の中で今回、俺に刺さったのはこの文章だった。
でな、佐藤がアレルギーをある種の『死』と考えたように、
定年もある種の『死』なんだよな
出展:佐藤さんのnote
ちょっと考えさせられる考え方だよな。
定年が死だというのなら、定年という死後も「自分が死んでいる」ことを自覚し続けるってことになるもんな。
そんな生き埋めになるようなことが、俺達の仕事人生の最後に待っている。
そのことは、言われてみりゃ当たり前かもしれないが、俺の中に鮮烈な印象を運んできた。
そう。俺たちはいつか死ぬ。
でも、死が「感覚の喪失」とセットだからこそ、俺たちは死ぬって事実を一旦脇においておける。
でも定年は違う。定年による「死」は決して俺たちの感覚を麻痺させてくれるわけじゃない。
しかも、60歳って言えば、体はまっとうに動くだろうし、「まだ若いもんには負けんよ」とかお決まりのセリフが炸裂しても自然な感じだと思うんだよな。
それでも定年は死だと言うのなら、俺たちはその死に備えなければ行けない。
「俺は世の中のためには何も役立っていない」ということを自覚しながら生きる毎日を過ごす覚悟を決めなければならない。
「定年」に対する覚悟
そんな風に考えていたら、佐藤さんのnoteではこんな風に言っていた。
定年を受容してはいけないよって。
いったん受容すると、次に行けなくなるよって。
出展:佐藤さんのnote
おっと、俺はまさにその罠にハマるところだった。
そうか、「役立たず」であることを覚悟決める前に「次」があるってことを忘れちまうところだった。
さっきも言ったとおり60なんてまだ普通に働けるわけだし、なんなら社会に全く必要とされなくなったとしても、生きている限りは何かをし続けるわけだしな。
だったら、自分に「役立たず」のレッテルを貼っている場合じゃない。
常に何かを考え続ける必要があるはずだ。
唯一違うのは、会社からミッションを与えられるわけじゃなくなるってことだけなんだよな。
だとすれば、俺たちが「定年」に向けて何を準備するかって、自ずと決まってくる気がする。
何かって?
俺たち自身でミッションを見つける練習をするってことだよな。
実際、インターネットが出現して、ニーズの細分化がどんどん進んできている中で、俺たちが個人で応えることが出来るニーズってやつも、見つけることが出来る時代になってきている。
B2Cの時代からC2Cの時代へと変化してきているってわけだ。
だとすれば、俺たちオッサンは会社で得てきたスキルを細分化して必要な場所に届けることだって出来るはずだ。
こんなのだってあるしね。
要するに俺たちは俺たちのブランディングを「定年」に向けてやっていく必要があるってことだよな。
だとすれば、今からでも俺たちのSWOT分析でも何でもやって、俺たちが答えられるニーズってやつを探したり作り出していかないといけない。
でなければ、生きながら死に続けるような毎日が俺たちを待っているってわけだ。
なあ、あんたはどうする?
俺たちには準備が必要だと思わないか?
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