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性欲由来の優しさという言葉

あんたは誰かに優しくしたり優しくされたりしているかい?

いつも通りnoteの散歩をしていたら、みんな大好きももまろさんがこんなことを教えてくれたんだ。

おおう、「性欲由来の優しさ」かいな。
実にパワーワードだなぁ。

あんまり俺のネット徘徊では引っかかってこなかったワードだけれども、どうもこの性欲ってのは男性が持つもので、それが存在しなかったら男性は女性に優しくしないよねって話らしい。

なんか、脊髄反射的に「そら違うよ」って言いたくなっちゃうやつだ。

今回はヒトに優しくするってことについて考えてみる回だ。

ちっと優しさってのが何者なのかを考えてみようぜ。

ももまろさんの考える優しさ

こんかい読ませてもらったももまろさんの表現でちっとばかりしびれたところがある。

優しさは、理由ありきばかりじゃない
自分がされた恩や痛みを覚えているなら
咄嗟に見知らぬ人にも手を差し出すでしょう
宗教観がなくても、利他的な人はいる

出店:ももまろさんのnote

優しさに理由は無いこともある。
これが意味することはなんなんだろう?

つまりは優しさってのは感情ってことになるのかな。

お腹が空いたという子どもがいたら一旦なんか食わせたくなるし、仕事で挫折しそうになっている女性がいれば、なんかアドバイスをしたくなっちまうし、愚痴っている男性がいたなら、まあ飲みに行くかって誘うだろう。

基本的に優しさってのは自分の感情に対する表現であって、見返りとかをその行動をする時点で計算しているってケースの方がレアだと思うんだよな。

泣いている仲間がいたら、問答無用で「どしたの?」って聞いちゃうもんよ。

性欲由来の優しさ

とは言えだ。

性欲由来の優しさって考え方をするヒトがいるってのは事実なわけだ。

どういう経緯があってその考え方に至ったんだろう?

だって普通に考えたら、その考え方を否定する実例なんていくらでもあるじゃんか。

知り合いの小さな娘さんに「おう、おやつ食うか?」って飴を差し出しているやつは全員ロリコンなんてことを証明できないべ?

多分だけれど、性欲由来の優しさって考え方そのものを発言しているヒトもその考え方が偏りが激しいってことは認識していると思うんだよな。

つまり目的があってあえてその偏りのある発言をしているって想像できるじゃんか。

その目的ってなんなんだろう?って考えてみると、色々考えたけれど俺としてはこの言葉にしか行き着けなかった。

「優しくされたい」

もっと言えば

「自分には優しくされる価値があると確信したい」

かね。

ヒトの優しさを否定する意味

何?
なんで優しさを否定するような言葉を使うことが優しさを求めることになるんだって?

俺はこう考えたんだ。

性欲由来の優しさって言葉を使うヒトの気持ちを想像したわけよ。
要するに「ホントの優しさなんて世の中に存在しない」って言いたいわけじゃん。直接的には。

つまりはその発言の時点で「ホントの優しさ」ってものを実感していないからの言葉なんだと思うんだ。

俺が思うに性欲由来の優しさってやつであってもホントの優しさたりうるとは思うんだけれどさ。
多分発言をしているヒトに取ってはホントじゃないって感じるってことなんだろうな。

で、その「ホントの優しさ」ってのを感じ取れないから、一瞬「自分には優しくされる価値がないの?」ってなる。
でもそんなのは苦しいから「そんなものは世の中に無いんだから自分だけが不幸なわけじゃない」って思考に移るって感じかと思ったんだよ。

そう考えるとさ。

ヒトの優しさを感じることって才能なんだな。

多分だけれど、性欲由来の優しさ発言をしたヒトだって色んなヒトから優しさを向けられていると思うんだよ。
ただ、その優しさの向こうになんらかの打算ってのが存在すると信じておかないと、自分に価値がないって思っちまう。

これさあ。

実に不幸じゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはどうやったらこの発言をしたヒトたちに「ホントの優しさ」を感じてもらうことが出来るんだろうか?

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