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議事録に込められていたもの

あんたも日々の仕事で打ち合わせってのをしているかい?

打ち合わせそのものは避けて通ることが出来ないので、淡々とこなしていくけれど、議事録を残さないといけないことも普通にあるよな。

ところがこの議事録ってのは曲者で、後で読み返したときに意味をもたせるものじゃないといけない。
具体的には誰がどんな意図でどんな決定を下したかってのが読み取れないと行けないんだよな。

今回はそんな議事録に対する工夫について考えてみる回だ。

ちっとどんな工夫があるのか整理してみようぜ。

議事録と議事メモの違い

よく議事録まで行かないけれど、議事メモを共有するってことはあると思うんだ。
この2つの差って何なのか?って改めて考えてみると実に奇妙な感じがするんだよな。

議事録ってのはさっきも書いた通り「誰がどんな意図でどんな決定をしたか」って言う記録だ。
対して、議事メモってのは「話されたことがそのまま書いてある」記録だ。

何が違うのかって?
そこにはその議論を記録者が解釈したかどうかの違いがある。

ぶっちゃけ、議事メモは音声録音しておいて、その音声から文字起こしをすればいいので、解釈は必要ない。

例えば、こんなツールを使うってのも手だね。

最近はこの手の技術が目まぐるしく進歩しているから、正確な議事メモを作り上げるためにこう言うツールを活用するのは結構でかい意味を持ってきているんじゃないかな。

議事録に求められる「解釈」

ところが議事録ってことになると若干求められるものが違う。

その最たる要素は「解釈」だ。

私はあなたの言うことをこう言うことだと理解しましたよ。あってますか?
っていう確認を経ることで議事録は実運用上の意味が出てくる。
特にシステム屋としては議事録は生命線になることが多い。

もちろん、やれ裁判だとかの法的な手続きになったときの証拠物件としては議事メモで十分なんだけれども、実際に役に立つものが何なのかってことを議論した結果として導き出されたものが「同じものだ」って認識をシステムに関わる全てのヒトが持つことは最終的に出来上がるものの価値を高める必須要素なんだよな。

しかも、上のツールのようにデジタルに会話の記録をしてみるとすごく感じることがあると思う。
びっくりするくらいに俺たちは整理整頓して会話することが出来ていないんだ。

脇道にそれたり、抽象的すぎる言葉を使ったり、およそ「論理だった会話」なんてものは出来ていないことがほとんどだ。

だからこそ、その言葉遣いのニュアンスだったり、相手の表情だったりと言う言語外の情報と、自分が今まで培ってきた業務に関する知識を総動員して「解釈」された議事録をこさえるってわけだ。

解釈なき記録が増える意味

とは言え、そんな高度に意図を込めた記録を都度都度作っているわけにも行かない。
だって、世の中はそんな手間隙をかけるほどゆっくり動いていない。

そうなってくるとさっきのツールみたいな技術で「解釈」を経由しない記録ってのは物理的に増えていくことになるんだろう。

その結果はどんな変化を引き起こすんだろう?

おそらく「そうは言ったけれど、そうは考えていない」って認識齟齬が顕在化するってことだよな。

特に、業務に関する知識がどんどん細分化されていくなかで、同じ経験をもったメンバだけでものづくりをするってのは現実的に不可能だ。
それ故に誰かの意図ってものを背景に取りまとめられた設計思想に基づいてシステムづくりってのがされてきたわけだけれども、それが各々が個別に持っている経験をベースに分断化されてしまうのかもしれない。

結果としてシステムは非常に細かい単位に分断されることになる。
誰かの意図に従って一つの大きな塊としてシステムは動けないようになるってわけだ。

おそらくは分断されて全体像がつかみにくくなるってことを「ダメ」ってするよりは、分断されてつくるのが当たり前ってなるように世の中は動くような気がする。

より細かな機能がつながって業務が回るってことを実運用で確かめながら、細かな機能を調整したり、組み合わせを変えたりして結果として最適化していくってやり方。
つまりアジャイルだ。

そうなったときに必要になるのは、開発する個々人のスキルも大事だけれども、どれだけわかりやすくリーダーが旗を振るのかってことがすごく大切な気がする。

なあ、あんたはどう思う?

議事録という記録に込められていた意図の代わりにどうやってリーダーは意図を伝えていけば良いんだろうな?

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