仕事に潜んでいるエゴ
あんたも日々、自分の仕事をこなしているかい?
実際のところ、仕事ってのは人生の中で実に多くの時間を費やす行為なわけだけれど、その仕事が自分を豊かにしている部分ってのはあんまり考えることって少ないかもしれない。
主体的に仕事にかかわることで、自分の世界観を広げられるってことを知っていたとしても、どうしても目の前の「やらなければならないこと」に忙殺されて時間を使っちまうってのはありがちだよな。
今回はそんな状況の中でどうやれば仕事で自分の世界観を広げられるのかってことを考えてみる回だ。
まあ、ちっと人生楽しんでいく方法を考えてみようぜ。
楽しい仕事って何か
まず最初に整理しとく必要がありそうなのは「自分にとって楽しい仕事」って何なのかってことなんだと思うんだよ。
仕事に時間を使う必要がある以上、その仕事の中で楽しい思いをする時間は増やしていきたいし、その楽しい時間を増やすために自分の世界観を広げられたらサイコーだしね。
で、俺の場合で考えると、没頭できる仕事って言葉になるのかもしれない。
その時々で何に没頭できるのかってのは違うってのはあるんだけれど、仕事をしていて時間を忘れてしまうような体験ってあんたにもないかい?
あの時をスキップされたような感覚。
時間を無駄にすることは生命を無駄にすることなんだけれど、あのスキップされた時間って実に充実感を得られる気がするんだよ。めっちゃ矛盾している気もするけれど。
没頭できる仕事をどう手に入れるか
仕事である以上、自分の行為が誰かの利益にならないといけない。
ここで言う利益ってのは必ずしも金銭的なものに限らないやつね。
公共サービスの提供とかも含む感覚だ。
でも。
過去の俺が没頭できた仕事ってやつを思い返してみる。
誰かの利益ってのがその時に俺の頭の中にあったか?
無いんだよな。
あのヒトのために。
顧客のために。
我が部署のために。
そう言う感覚は没頭して仕事をしているときには感じてない。
もちろん仕事を「始める」ときにはそう言うモチベーションってのはあると思う。
でも実際に没頭しているときにはそんなモチベーションは感覚として維持していないんだよな。
あるのはエゴ。
ただひたすらに自分の中に何かを積み上げていく感覚だけだ。
エゴを共有するという矛盾
でも、そのエゴの結果は共有されないと仕事にならない。
なので、誰の利益のための仕事なのかって「言い訳」が必要になる。
その言い訳は自分の仲間や顧客に対するものであるのと同時に自分に対しての言い訳でもある。
その言い訳があるから、俺たちはその仕事に没頭するということを許せるわけだしね。
この言い訳というインタフェースは自分と世界をつなぐための必須アイテムってわけだ。
こう考えてみるとちょっと不思議な感覚が言語化されてくる。
つまり、俺たちは言い訳を抱え込むほどに俺たちと世界のつながりを得ているってことになるじゃんか。
どこかの誰かの未来のために
俺の好きな言葉の一つに「どこかの誰かの未来のために」ってのがある。
でも俺は何でこの言葉が好きなのかってことについてあんまり考えることはなかった。
でも「言い訳が世界と自分をつなぐ」って言語化を経由すると、ちょっと感じられることが出てきた。
俺は厳密には「どこかの誰かの未来」を望んでいるんじゃなくて、「どこかの誰かの未来とつながる自分」を望んでいるってわけだ。
もっと言うならその自分を目指しているという免罪符をもって日々の仕事に没頭させてもらっているってことか。
つまりは何か。
俺はつまるところ俺に言い訳を続けているってわけか。
その自分への言い訳によって、世界観を広げる作業。
それが仕事だったり、このnoteを書き続けることだったりするんだろうな。
いやあ、徹頭徹尾のエゴだな。こりゃ。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは仕事という言い訳をどう広げていけば、俺たちのエゴを満たすことが出来るんだろうか?
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