価値観を理解するための対話
あんたは家族と対話って出来ているかい?
とあるnoteを読ませてもらったんだ。
この記事によると対話ってのは極めて特殊な言語行為なんだそうだ。
うん?話せば良いんじゃないの?ってシンプルに思わせる言葉だよな。
この記事によると対話は討論でもなければ通知でもない。
背景にあるお互いの価値観や感情を理解するためのコミュニケーションだってんだよな。きっと。
※読解力壊れてたらごめん
ほほう。価値観や感情を理解するか。
でも家族だってさ。価値観や感情は違うわけだからさ、必ずしも「あなたはそう感じるのね」で終われないことってあるよな。
なんつーの?
理解は出来たが受け入れられない的な。
今回は他者の価値観や感情を理解するってことについて考えてみる回だ。
ちっと俺らのコミュニケーションの有り様を眺めてみようぜ。
価値観や感情を理解しようとする行為
そもそもなんだけれどさ。
価値観を理解するって何を持って出来たって判断できるんだ?
感情はなんとなくわかる気がする。
喜怒哀楽くらいのざっくりした感情かもしらんけれど、「あ、このヒト今怒っている」くらいはわかるじゃんか。ちっと話せば。
あり?でも俺はあんまり感情を表に出さないように心がけているから、俺の感情は比較的伝わりにくいって理屈になるのか?
ってか、怒りの感情を感じてないように自分自身をごまかしているところもあるからそもそも怒りについての対話を拒んでいるってことになるのかな?
まあ、一旦感情の対話はおいておいてだ。
価値観の対話って何だって話だ。
その前に価値観ってなんだ?
何に価値を感じるかって考え方ってことなんだな。
つまり、切り口が無限にあるものってことなんだな。
だって、そもそもある事柄に対して価値観を持っていないなんてこともあるって意味だろ?
例えば、俺がガンダムに暑苦しい価値観を持っているけれど、そもそもガンダム知らんってヒトは普通にいるわけだしね。
価値観を共有していない状態からの対話
そう言う、そもそもの共有概念が無い状態からの価値観の理解って対話によって成り立つんだろうか?
さっきのガンダムの話で考えてみると、ガンダムを知らないヒトに対して俺はまずガンダムの説明をするってことになると思うけれど、その説明を聞いて「ふ~ん」って言うそっけない態度を感じたら、「あ、このヒトはこう言う物語は好きじゃないのね」って価値観を理解したってことで対話出来たで良いのかな?
でもそれってさ、対話によって得られるものはその時点で価値観の違いを明確にするってことで合ってる?
それって人間関係の良好化につながるの?
価値観が対立しているときの対話
じゃあ、そもそも価値観が対立しているときはどうなんだ?
価値観のすり合わせをするのか?対話で?
ってかすり合うのか?価値観って。
すり合うようなら、それってそもそも価値観って言えるのか?
そう考えるとさ、やっぱりどこまで言っても対話によって得られるものって「俺とお前は違う」ってことを浮き彫りにするだけなのか?
きっと理想としては「俺とお前はこの価値観を共有出来ている」ってことをお互いに理解するってことだけれども、まるっきり対立している価値観を持っている部分を理解したときに、ヒトってのはそのヒトと一緒に過ごすってことを許せるもんなのか?
特にその価値観が善悪みたいなジャンルの場合はきっと難しい。
夫婦になるみたいな場合は、結婚する前にきちんと「対話」しとけば決定的な価値観の違いってのを抽出できるかもだけれども、最初に書いた通り価値観の切り口ってのは無限に存在する。
決定的な対立軸ってのを抽出するのは事実上無理だと思う。
だとするとだ。
もしかすると対話ってのはそう言う決定的な対立軸を見つけないように工夫する作業ってことなのか?
この話がそうなら、この話はきっとこうだろうって予想する的な。
だとすれば、なんという「ハリネズミのジレンマ」だろう。
対話ってのは、お互いが傷つけ合わずに済む間合いを価値観と言うフィールドで探り合う行為ってことか。
なあ、あんたはどう思う?
対話によって俺たちが得るものは何なんだろう?
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