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ネガティブな感情を含めて自分って思うこと

嫌なこと。
あんたも嫌なことって色々あるよな?

仕事でも面倒なことはいくらでもあるし、プライベートでも面倒なことは目白押しだ。

俺たちはそれでも面倒なことを一つ一つ片付けながら生きている。場合によっては面倒なことをなかったコトにして受け流したりもする。

でもちょっと待てよ?
なんで俺たちはそれを「面倒」って思うんだろうな?

今回は、「面倒」についてちょっと考えてみる回だ。

まあ、面倒臭がらずに付き合ってくれよな。

嫌なことについて考える切っ掛け

今回の「嫌なこと」について考える切っ掛けをくれたnoteがある。

それがこれだ。

笹塚さんは、わりかしストレートな表現で自らの心情を文章にされている感じがするnoteの作家さんだ。

今回、俺に刺さった表現はこいつだった。

「みんなと一緒じゃなきゃダメ」だという思い込みは恐ろしい。私にとってはあの中学校は、行くことにはなんの価値もない、百害あって一利なし、そんな場所だった。
出展:笹塚さんのnote

行くことに価値がない。
このことを断言できる価値観を持っているってことは、辛いことだったんだろう。

何にせよ、自分の価値観とギャップのある環境に居続けなければいけない状況ってのはたしかに地獄のような日々だったんだろうな。

で、そこでふと考える。

そんな確固たる価値観を俺は持っているんだろうか?

何かが「嫌だ」ってことは普通にある。
満員電車に押し込められながらの通勤は苦痛の極みだし、何のフォローもしてくれない上司に対しての状況報告も苦痛だ。

でも、それは俺が「こうなったらいいのに」っていう何らかの前向きな打開策ありきでの「嫌だ」ではないんだよな。
単純にその瞬間で「嫌だ」って思うだけのもの。

俺にとって「なりたい俺」なんてものがきちんと言葉にできる状態ってのは、理想ではあるけれど、手につかめるようなものではないような気がしてしまう。

つまり、俺にとって「価値がない」という言葉は強すぎるんだろう。
何しろ「価値」ってなんなのかを俺自身が言葉にできないんだから。

それでも俺たちを支配するネガティブな感覚

俺自信が「価値」を定義出来ていないってことが本当だとしても、この瞬間に「嫌だ」と感じる俺の感覚ってのは嘘でもなんでも無い。

笹塚さんにとっても、それはそのとおりだったんじゃないだろうか。

それほど、俺たちにとって「嫌だ」という感覚は強い。
俺たちが冷静に何かを捉えようとしたとしても、その「嫌だ」は遥か上位のものとして俺たちの中に君臨する。

俺たちは感覚の奴隷なのかもしれないな。

でも、そんな状態を俺たちは望んでいるんだろうか?
多分ちがう。

俺たちは俺たちの感覚からもっと自由で居ていいはずなんだよな。

感情を楽しむ

俺たちは「面白い」と思いたいから面白がっていいし、「泣きたい」と思いたいから悲しい映画を見ていいはずだ。

なんで「面白い」と思いたいのか。
なんで「泣きたい」と思ったのか。

それは多分大切なことなんだろう。
でもそれよりも大切なのは今俺たちが「○○したい」と考えたことなんじゃないだろうか?

何かを感じたいというシンプルな欲求。
そして、それを実現するための行動。

あまり複雑に考えることではないのかもしれない。

俺たちは、シンプルに生きることを楽しんでいいはずじゃないか?

そして、それは兎にも角にも「感じる」ということを前向きに捉えるってことなんじゃないだろうか?

遊びたい。寝たい。食べたい。
その各々の欲求の原因ってのは多くあると思う。

その原因を紐解くことも重要だ。
でもそれ以上に、俺たちがそれを感じているってことそのものの価値っていうのもあると思うんだよね。

だって、それが生きているってことじゃないか?

なあ、あんたはどうだい?

あんたの今の感覚。
あんたの存在価値そのものだと思えるかい?

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