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「俺ら」と「やつら」をうがつもの

あんたは自分と自分以外のヒトとの差というものについて考えることがあるかい?

究極的には自己同一性なんて言葉につながる話になってくるけれども、自分と他人が違うってのは当たり前すぎる話だよな。

ところが、これが「俺たち」と違うってなってきたとたんに話が飛躍的に難しくなってくる。
なぜって?
「俺」と「あんた」は話し合うことがワリカシシンプルにできるじゃんか。
なんつっても俺もあんたも自分のことは自分で判断できるしね。

でもいつだって、「俺」と「あんた」は語り合える状況にはない。
ニュースの向こうにいるような「あんた」とモニターの前に座っている「俺」は語り合うことも出来ないもんな。

今回はそんな隔絶された「俺」と「あんた」が感じる差別について考えてみる回だ。

まあ、例によって答えのある話じゃないけれど付き合ってくれよな。

差別を考える

何となくこの差別って言葉っておっかないよな。
良いことじゃない。だからしちゃダメ。
そんな感覚は誰もがもっていることだと思う。

たださ。
差別がなぜ起きるのかってことについてきちんと考える機会ってあんま無くないか?

だってさ。さっきも書いた通り差別って言葉自体がすげぇパワーワードだから、「差別、ダメ、絶対」で話がおわっちまうんだよ。

実際には差別の対象も色々だし、その感情が沸き起こる原因も様々なはずなのに、その事をきっちり考えることもなく、「差別をした」というラベルを誰かにつけて、スケープゴートを作り上げて終わりにしちまう。

それじゃあ、本質的な課題への取り組みにならないじゃんか。

ジェンダー差別発言を考える

吉野家の常務が講演で女性蔑視ともとられかねない発言をしたってんで吉野家を解雇されたって話があるじゃんか。

確かに「生娘をしゃぶ付け」って発言はセンスを疑うものなわけだ。
ただ、ニュースをはじめとするこの事に対する反応を眺めていると、発言をした常務の人格否定を含めたヒトへの批判は見られたけれども、「なんでそんな発言をしたか」について考えてるって反応は見つけることができなかった。

前後の文脈について追っかけることができなかったので、想像でしかないけれども、冗談としてそういう言葉を使ったんだと思うんだよな。
「生娘、ぐへへへぇ」とか「しゃぶ付け、ぐへへへぇ」とか日常的にこの常務が考えていたってのはちょっと想像がつかない。
「お主も悪よのぅ」くらいのトーンでの発言なんじゃないかな。

実際、この常務さんのことをなんか他の番組で見た記憶があるんだけれども、実に戦略的に物事をとらえている印象があったんだよ。
つまり、思考力そのものは卓越したものがある御仁だって感じてたんだ。
そらそうだ。そのくらいの能力がなければ吉野家の常務にまで上り詰めるなんてデキッコナイスじゃん。

そう考えるとさ。
この発言は下品だけれども、それで職を追われるような話なのかって気がしてこないか?
むしろ、言葉狩りによる差別を俺たちはこの常務にしてしまってないか?

言葉狩りという差別を俺たちがしてしまう理由

じゃあ、なんで俺たちはこの常務の発言を差別してしまうんだろう?

考えてみたんだけれど、やっぱり差別って言葉が強すぎるんだよな。
差別ってラベルをつけられただけで、絶対的な悪者になっちまう。

悪者。
なんやかんやで、俺たちは悪者が大好きだ。
なぜって?
それは俺たちの正義を証明するために欠かせない存在だからだ。

だから日々のニュースから悪者を探しては、「俺はこいつと違う」って言って自分が正義に属しているってことに安心感を得ようとしちまう。

それがスケープゴートを作っているだけだって頭ではわかっていても、俺たちは悪者を探しにニュースをあさっちまう。
そして、その悪者を「あいつら」に仕立てあげちまう。

本当は、「あいつら」も「俺たち」なのかもしれないのにな。
そして、俺たちにとっての「あいつら」を作り上げた瞬間に、俺たちも「あいつら」になっている。
こんなの誰も幸せにならないやつじゃんか。

なあ、あんたはどう思う?

俺たちは差別を嫌悪するのではなくて、分析することが出来るようになると思うかい?

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