上司という存在を考える
あんたにも上司っているかい?
会社員として日々の糧を得ているなら、完全に自分で会社を興したり圧倒的な資本力で会長にでもなっていない限り、上司ってのは居るわけだけれども、俺たちは上司を選ぶことは出来ないのが普通だよな。
中には反りが合わない上司ってのも必ずいる。
俺の会社員人生を振り返ってみると、この反りが合わない上司とのぶつかり合いの歴史だった気もする。
今回は俺の会社員人生を振り返って、俺にとっての上司って存在が何者だったのかを考えてみる回だ。
ちっと組織って存在について考えてみようぜ。
新人だったころの上司
俺自身が新人だった頃、仕事をする時間とかもメチャクチャで、毎月残業時間が100時間なんてのは当たり前の世界。
俺の最初の上司は「よくわからないけれど怖いヒト」だった。
右も左も分からない状態で仕事していたから、周りのヒトの意図を考える余裕がなかったんだよな。
なんかズルをしたメンバーが居ると叱り飛ばす。
なんか緩んでるメンバーが居ると叱り飛ばす。
そんな感じで「叱るヒト」だったんだよね。
逆に言うと、それ以外のことについて上司を観察出来てなかったわけだ。
今の視点で見たら全然印象が違うのかもしれないとは思うんだ。
なぜって?
その叱る上司は部下からの信頼が厚かったからだ。
その時の俺にとって、届くことが絶対にできないって思わせるような先輩方がこぞってその上司を頼り、上司の期待に応え、生き生きと仕事をしていたからだ。
ワカゾーだったころの上司
で、ある程度仕事をこなさせてもらって、仕事のイロハをある程度理解し始めた頃、俺が始めちまったのが上司との「意見のぶつけ合い」だった。
要するに「生意気なやつ」だったわけだね。
これがアメリカだったら良かったのかもしれないけれど、ここは日本だ。
組織というもののあり方が違う。
しかも当然上司の方が経験している仕事の量が違う状態だから、仕事の課題をどうやってこなしていくかってことについて、当時の俺なんか比較にならないくらいに考えていたと思う。
それでも突っかかってくるもんだから、そら面倒なやつだったと思うんだよな。
その上司を今思いだしてみると、商売をとってきてくれる営業からの信頼がメチャクチャ厚かったのを思い出す。
そうか、あの頃の俺は「技術屋」であることをやめてしまった上司が許せなかったんだな。きっと。
実体は「技術屋」を「やめざるを得なかった」はずなのにな。
「技術屋」でいられるのは現場メンバーの特権なんだ。
上司は「技術屋」じゃなくて「経営者」であり「リーダー」にならないといけなかったんだよな。
上司を支えたくなった自分
で、時は経ちだんだん見える範囲が広がっていくと、上司が何に困って居るのかってことまで見え始める。
当然、俺よりも若い上司なんてヒトも普通に出てくるので、その困っている様子はシンプルに助けたいって思い始める。
そこでふと気づく。
このヒトのことを助けるためには、その困っていることの本質を俺が理解しないことには始まらないってことに。
上司が自分よりも経験している仕事量が少ないケースでは、俺の経験の中に上司が持っていない情報があるかもしれない。
課題の本質を共有できていれば、組織として取れる幅が広がるはずだ。
でもそこには課題もある。
俺が話しかけやすい部下である必要があるってことだ。
ワカゾーの頃のように正論をぶつけるだけじゃ組織がとれるカードを増やすことは出来ない。
そして、ワカゾーの頃の俺のような今のワカゾーの思いを汲み取ることも必要になる。
オッサンメンバーが組織に何を求められているのかってのは、その組織にもよると思うんだけれども、俺自身は組織の「接着剤」になりたいって思うんだよな。
俺の感覚としては、個人個人の能力はベラボーに高いのに、それが同じ方向を向けていない時がある。
それは若者たちが上司の意図を掴みきれていない部分があるからだし、上司が意図をうまく説明できていない部分があるからだ。
俺たちオッサンにはその双方を理解できる部分もあるはずだ。
そう考えると上司ってのは何なのか?
きっと「灯台」なんだよな。
進むべき場所を示す存在。
そして、その示す場所が故障によってずれちゃうこともある。
そのときには一緒になって故障を治すことを求める存在。
なあ、あんたはどう思う?
俺たち自身が故障しているかもしれない前提で上司の思いを汲み取り、ワカゾーたちの思いを汲み取り、それらをつなぐことが出来ると思うかい?
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