進撃の巨人とガンダムSEED

あんたも進撃の巨人の最終回までをすでに楽しんでいるかい?
もしくはアニメで最後まで楽しみにってあんたもいるかも知れないよな。

あの作品がすげぇってのは間違いないと思う。
その上で、その評価ポイントがヒトによって違うってのもなんとなくだけれども理解できる。

その緻密なストーリー展開って一言で表現してしまうにはあまりにも強大な要素をその最大のポイントだと言うヒトもいるだろうし、エレンの感情の動きそのものの表現方法について価値を見出すヒトもいるだろう。

そのいずれもが俺を魅了して間違いない要素だってのは疑いようもないものだとして、その上で俺が取り上げたいテーマがある。

今回はそのテーマに対して他の作品を例に取りながら深堀りしてみようぜって回だ。

ちっと趣味話に付き合ってくれよな。

進撃の巨人という作品の世界観

進撃の巨人という作品のすげぇなって思うのが、主人公たちエルディア人が作品が始まった当初は虐げられた人々として描かれているってことだ。

進撃の巨人はざっくり言えば以下の戦いが描かれている。

(1) 巨人との戦い
(2) 政府との戦い
(3) 世界との戦い

戦う対象がどんどん変わっていく物語なわけだ。

そのどんどん変わっていく敵に対して主人公のエレンたちは必死に抗い、戦い、生き残るための最善を尽くす。

その中で、エルディア人というものに対して一つの印象が芽生える。

エルディア人は巨人化という特殊能力を持っているということで世界から恐れられているって印象だ。

そのことは作品中でも繰り返し描かれていることからも多分エルディア人というものに対しての劣等感ってものが世界に存在していたってのがあると思うわけだ。

劣等感と優越感を描いた物語

そこで、「あれ?この構図どっかになかったか?」って思ったわけだ。

そう、機動戦士ガンダムSEEDだ。

続編の機動戦士ガンダムSEED Destinyを含めて賛否両論がえげつない作品だとは思う。
その上で、その構図のテーマ性ってのは結構デカかったと思うんだよね。

いわゆるデザインベイビーとして、ある程度確立された方法論でこの世に生を受けるコーディネイター。
その行為に嫌悪感を抱くナチュラル。

この構造ってさエルディア人とそれ以外のヒトたちの構造と酷似してないか?

2つの作品の結末を考えてみる

そう考えてみた上で、進撃の巨人と機動戦士ガンダムSEEDという2つの作品を眺め直してみる。

進撃の巨人は巨人化という最大の戦力でありつつ、その性質から最も忌み嫌われる能力を担わされたヒトたちの物語だ。
そして機動戦士ガンダムSEEDはヒトの親が自分の子どもの幸福を望んだ結果としてヒトをヒトならざるものにする物語だ。

そして、その違いは与えられた力が恐れられたという1点に置いて共通の要素となる。

共通の要素はあるが、進撃の巨人はたった一人のヒトに運命を託すことで、ヒトの業というものを残った人類全体で背負うことになる。
そして、ガンダムSEEDはたった数人の正義で世界を救う物語だ。

この差に俺はたまらない不満を感じるわけだ。
なんで、このデザインベイビーというメチャクチャ考えなければいけないテーマをシンプルなヒーロー物語にしてしまったんだって。

機動戦士ガンダムSEEDの物語から「敵を殲滅する」ということに対する抵抗感が作品全体に感じられないことを感じる。
後半の主人公キラの殺さずの行動をとっても、自分の能力の優位性に裏打ちされた偽善としてしか感じられない。

それに対して進撃の巨人は終始一貫して「自分の生き残らせたいヒトを生残す」という目的が貫かれている。
その手段が「駆逐してやる」であったとしても、その結果として全人類の8割が死に至るという現実を作り上げることになろうとも、その事実はエレン一人に担わされることになる。

とは言えだ。
俺たち読者が進撃の巨人という作品を受け入れられる土壌が機動戦士ガンダムSEEDという作品が公開された時代であったのかってのは、ちっと疑問だ。

なにしろSNSが今ほどは使われていない時代の話だ。
俺たちは作品に対する感想をやりとりする手段すら満足には手に入れていなかった。

機動戦士ガンダムSEEDという作品が出来るときに、SNSという状況があったらこのデザインベイビーというテーマは違った意味を持っていたんじゃないだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

俺たちはこれからの時代に生まれくる多くの作品の価値をどう捉えて、どうやってシェアしていくんだろうな?

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