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制約と自由

あんたは「自由」って状態について考えることってあるかい?

だいぶ前に進撃の巨人がアニメを含めて完結した。
あの作品では自由って言葉がひとつのキーワードになっていたよな。

実際、あの作品が生み出した「自由の奴隷」と言う言葉は、俺たちの根っこのところにある何かを刺激するものだったと思うんだよね。

改めて考えてみると、俺たちの過ごしている日々の生活ってのは実に多くの制約事項を抱えながら過ごしているわけだけれども、その制約事項があって始めて自由を感じられるって側面もあると思うんだよね。

いや、言葉として矛盾をはらんでいることは百も承知。合点承知の助だ。

なんとなく記憶にある範囲で考えると、この制約による自由って考え方に触れたのはエヴァンゲリオンTV版の最終話だったような気がする。

ある方面では有名でこすられまくっとるあの「おめでとう」のシーンだけれど、この前のシーンで地面があるから歩ける的なことが描かれてたと思うんだよな。

もう何十年も前の作品だけれど、この地面という制約が自由の源であるっていうのは、オッサンとなった俺にとっても相変わらず真実だと感じられているんだよ。

今回は制約と自由ってことについて考えてみる回だ。

俺たちが求め続けてもたどり着かない自由ってやつについて青臭く考えてみようぜ。


俺たちを取り囲んでいる制約

と、言いながら俺たちを囲んでいる制約ってのは、あまりにも俺たちの生活に溶け込みすぎていて、日々の生活の中では特段意識することすら無いのが普通だと思う。

誰だって日々の生活を維持するために働くし、いわゆる給与を手にしていないケースであっても、ありとあらゆる形で「不快」という感覚は俺たちとともにある。
どんな行動であっても、その行動に対する抵抗ってのは存在するじゃんか。

こいつは「行動しない行動」って言う意味がわかったようなわからないような状態を含めて例外はない気がする。

この「不快」と言う感情とともにあり続けるってのは、当たり前だけれども嫌なもんだ。

それ故に俺たちはその感情の原因を外部に切り離そうとする。

そいつが「制約」ってことなのかもしれない。

プラットフォームと言う存在

話が壮大になってきたので、ちっと身近なところでの話に局所化してみよう。

例えばだ。
このnoteというプラットフォームを使って俺は表現をしているわけだ。

当然ながら俺のこの表現はnoteと言うプラットフォームの制約を前提に行われることになる。
おっかないことに、この制約ってのは事前に表現をする側の合意なく規約改定の名のもとに変化する可能性があるってのがある。

コレはnoteに限った話じゃない。
プラットフォームと言う仕組みに乗っかって活動する以上はどうしてもついて回ってくるものだ。

これは情報発信に限った話じゃない。

ショッピングならAmazonでも楽天でもメルカリでもそのプラットフォームの制約に従って商売するしか無いのと同じだな。
ネットライフってことで考えるとGoogleと言うプラットフォームが握っている影響力ってのは筆舌に尽くしがたい物があるよな。
Google八分とはよく言ったもんだ。

つまりプラットフォームを使って表現をする以上はその運営母体の胸先三寸で俺たちの活動は「ダメ」と言う烙印を押されることになるってわけだ。

表現の自由で手に入れたいもの

で、実際のところ、プラットフォームと言う制約の上で俺たちはどんな自由を手に入れているのか。

単純にnoteというプラットフォームが施しているSEO対策に乗っかることが出来るから、俺たちの表現がいろんなヒトに届く可能性があがるってのがあるよな。

じゃあ、そんなふうに読んでくれるヒトの存在を通じて俺たちは何を表現したいのか?

俺の場合はそれが「共感」だったり「感動」だったり「オモロイ」だったりする。

ただ、冷静に考えてみるとnoteというプラットフォームが与えている制約と自分の表現の因果関係ってのをうまく言葉にできないってのも現実としてあるんだよな。

あえて言うなら、noteというプラットフォームで表現を記録し続けることが出来るってことなのかもな。
つまり表現の倉庫。それが俺にとっての地面ってわけだ。

その地面に立って今日も何かを書いていく。
そんな感じかな。

なあ、あんたはどうだい?

あんたの表現はあんたの周りの制約とどんな関係が成立しているのかな?

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