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noteにおける交流を考える

あんたもnoteに追加されるいろんな機能について眺めていたりするかい?

なんとなく通知を見ていたら、note界の重鎮であるナースあさみさんがnoteのコミュニティを使って何か始めるらしい。

どうもナースあさみさんと髙崎純子さんがタッグを組んでエッセイを月イチで配信して、その内容についてやり取りしてこうぜって企画なんかな?

髙崎純子さんという御仁についてはあまり存じ上げとらんのだけれども、いろんな著書を出されていらっしゃるご様子。

なので俺が知っているナースあさみさんの印象を書いて言ってみると、俺の個人的な印象だと、ナースあさみさんのnoteってなんとも言えない柔らかさと鋭さが同居している「the・エッセイ」って感じの記事が多い気がするんだよね。

俺としてはワリカシ好き好んで読ませてもらっているんだけれど、それでも有料でこのコミュニティと言う仕組みでしか出来ないことってなんだろうと思わせてもらったんだよね。

今回はnoteと言う仕組みを使った個々人のやり取りについて考えてみる回だ。

ちっと、俺たちの交流ってやつについて考えてみようぜ。

交流が生み出す信頼

実際、ナースあさみさんのこのコミュニティという仕組みを使った企画を眺めていると、月イチで上がってくる2本のエッセイをたたき台にいろんなやり取りしてみましょうぜって話だと思うんだ。

このコミュニティが成立する大前提としてはナースあさみさんと髙崎純子さんが持っている(というか培ってきた)信頼みたいなものがあると思うんだよな。

その信頼ってのは、オンライン、オフラインに関わらず「どうヒトと接してきたか」ってことの結果みたいなもんだと思うんだ。

このヒトの言っていることはオモロイ。
このヒトの言っていることは唸らせるものがある。
このヒトは嘘をつかない。

そんな感じの信頼ってのは本質的には言葉をやり取りして初めて芽生えるものだと思ったりするんだよ。

発信と言葉のやり取り

で、ふと考える。

noteって仕組みは文字媒体での発信をするヒトが比較的多いと思うんだけれど、結構その発信ってのは一方通行になりがちだと思う。

これは表現している内容が云々ってよりは、noteと言う仕組みが抱えている課題みたいなものだと感じているんだよね。

例えば、この記事はナースあさみさんの記事を引用して書かせてもらっているけれど、これは「交流」になるんだろうか?

なんとなくだけれど、俺はこれは交流とは違う何かだと感じるんだよね。

なんつーの?
ナースあさみさんの書いている内容に刺激を受けて、その刺激をたどって自分自身の感覚にダイブしていくような感覚。

noteという仕組みが、ある程度「創作者」であることを前提にしているきらいがあると思うんだ。

で、創作者である以上は自分自身と向き合うって側面が少なからず出てくると思う。

この自分自身と向き合っている瞬間には外部からの刺激は一回遮断していると思うんだよ。

違う切り口で表現するなら、noteに限らずこういう「意図的に発信する」と言う行為は「交流」と言う言葉が連想させるリアルタイム性ってのが欠落するって特徴があると思うんだ。

熟考とリアルタイム

じゃあ、リアルタイム性を使ったメディアでやり取りすればいいじゃんってなる気もするけれど、その方法はX(どうしても慣れないぞ、この名前)で横行する殺伐としたやり取りを生み出すって言う諸刃の剣でもあると思うんだ。

かと言って、熟考に熟考を重ねた上での発信が交流を生み出すとも思えない。
もちろん、感想をコメントとかでもらえる事はあるけれど、それはあくまで一方通行のやりとりであって、交流のように綿々と続くやり取りとは違うじゃん。

このバランスを取るってのをナースあさみさんの企画ではXの機能を併用することで実現しようとしている様に見えたんだよね。

ぶっちゃけ、俺にはその方法が効果的なのかってのは想像がつかない。
あんたは想像することができたりするかい?

なあ、あんたはどう思う?

noteと言うメディアを使って「交流」を深めることが出来ると思うかい?

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