進撃の巨人という作品で自由という言葉を考える

あんたも進撃の巨人のFinal Seasonを楽しんでいるかい?

マンガの原作を読んでいるときもそうだけれども、あのマンガが取り上げている自由ってテーマはものすごく難しい要素をはらんでいると思うんだよな。

今のアニメで放映されている部分だけで見ても主人公のエレンが追い求めている自由ってものはたまらなく難しいものだと感じているヒトって多いんじゃないか?

そもそも自由ってなんだ?って問に答えられるヒトって結構レアだと思うんだよ。

今回は進撃の巨人というコンテンツを通じて「自由」ってものについて考えてみる回だ。

ほぼ正解にたどり着くことが不可能な問に一緒に立ち向かってみようぜ。

進撃の巨人の「自由」

進撃の巨人では一貫して自由というテーマを扱っているってのは、あの作品を読んでいるあんたなら同意してくれると思うんだ。

作品の最初から「壁」と「巨人」という圧倒的な不自由の象徴が物語の中に登場してくる。

壁の先にある巨人という不自由。
巨人の向こうにあるヒトという不自由。
ヒトの先にある神という不自由。

どこまで行っても、ヒトは自由にはなれない。

そんな物語が最終話の直前まで描かれ続けている。

そもそも自由ってのは何者なのか?
そんな問を思いついてしまうような展開だよな。

困ったときのWikipedia先生はこう言っている。

自由(じゆう、希: ἐλευθερία、羅: libertas、英: liberty, freedom)とは、他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていることをいう。哲学用語。
出典:Wikipedia

なるほど。
自分の「意思」か「本性」に従っている状態なわけだ。

中国で進撃の巨人が禁止されているという象徴

話は変わるが、中国では進撃の巨人という作品にふれることが出来ないんだそうだ。

進撃の巨人以外にも結構な数の日本製アニメが閲覧不可な状態になっているんだそうだ。

これってなんか象徴的に感じてしまうのは俺だけだろうか?

進撃の巨人という作品は壁と巨人によって外界と断絶した世界から始まっている。

壁の外にはヒトはすでにいないことを信じ込まされてヒトは暮らし続けている世界だ。

この状況ってスゴく今の中国に類似する点を感じてしまうんだよね。

進撃の巨人では壁によって外界と情報を交わすことができなくなっている。
そして、中国ではグレートファイアウォールという情報の壁によって外界のインターネット上にある情報を得ることができなくなっている。

そして真逆の点もある。
進撃の巨人では壁の王たるフリッツ王は外界への侵略そのものを拒んでいるのに対して、中国は一帯一路という御旗の元に外界への進出を目論んでいる。

これってすごい象徴的じゃないか?
中国共産党が拒んでいるものは進撃の巨人の世界観との共通点なのか?
それとも真逆のポイントなのか?

自由という足かせ

話を自由という言葉に戻してみよう。

自由は自分の「意思」か「本性」に従っている状態だってことをさっき書いた。

そして、何回も俺がこのnoteで書いていることがある。
ヒトには「自由意志」なんてものは無いってことだ。

ヒトという生き物は自分の感情をコントロールすることが出来ない。
喜怒哀楽のどの感情も、その感情が湧き上がってしまうことは俺たちにはコントロールが出来ない。

出来るのは感じた感情をどう表現するかってことだけなんだ。

その意味では「意思」に基づく自由ってのは限りなく不可能に近い。出来るのはあくまで「本性」に従う自由ってわけだ。

ならば本性ってのは何者なのか?
コイツも困ったときのWikipedia先生に聞いてみよう。

本性(ほんせい、ほんしょう、英: Human Nature)は、人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念である。
出典:Wikipedia

ほほう、「人間が普遍的に持つ」と来たもんだ。

つまり俺たちヒトという生き物は普遍的な共通点があって、そいつに従うことが自由ってことか。
なんだその矛盾。

俺たちヒトには「普遍的に持つ」縛りが存在していて、それに従うのが「自由」ってことじゃんか。

「縛り」に従う「自由」。
このたまらない矛盾点を進撃の巨人という作品はどう料理するんだろうか?

なあ、あんたはどう思う?

このパラドックスに対する解を俺たちが得られる日は来ると思うかい?

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