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『タイミングの社会学: ディテールを書くエスノグラフィー』 石岡丈昇、2023、青土社 [レビューno,1  ディティール]

『タイミングの社会学』 皆さんはもう読まれましたか?

この記事は本の宣伝(および僕のアウトプット)の場なので、読んでない方こそ大歓迎です!

ここでは、分かりやすく内容を要約して「ファスト読書」に加担するようなことはしません。『ディテールを書くエスノグラフィー』と副題があるように、仮に要約があってもそこから抜け落ちてしまうディテール(細部)まで味わうことに、この本を読む意義があります。ぜひこちらを入口にでも、ご購入検討ください!

フィールドワークが世界の見方を変える——

舞台は、マニラの貧困地区。突然試合が中止だと告げられるボクサー、自宅が急に目の前で破壊されるスラム街の住人、常に主人の顔色を窺う家事労働者……。何が起こるかわからない明日を待ち、絶えざる今を生きのびるとはどういうことか。かれらが生きる時間のディテールをともに目撃し、ともに書くための理論と思想。

舞台は、マニラの貧困地区。という時点で、イメージするのが難しく思えてくるかもしれません。ましてや、こうした学術的な本は、読み手の側にものすごい技量と態度が求められているような印象を持ってしまうと思います。

でも、『タイミングの社会学』は難しい本ではなく、"読みごたえのある本"だと私は感じました。専門用語で埋め尽くされた内容を牛歩で読み進めるような専門的に訓練された人しか読めないものではなく、私のような無教養の愚図でもしっかり読むことができます。

むしろ、読んでいくとマニラのボクシングキャンプの生活や出てくる人物たちのことを、不思議と身近な存在に感じられ、自分と乖離せず隣にいるような感覚を持ちます。

このシリーズは、そんな『タイミングの社会学』の魅力を、数回に分けて紹介していきたいと思います。

ディティール

他者の行為の説明の精度と質が悪いと、別世界のビックリ話で終わってしまいます。「へー、こんなひどい世界があるんだ、かかわらないでおこう」と。それに対して、精度と質が高いと、そこに大きな歴史とか社会構造とかが必ず入り込みます。そして、一般の人びとに「もし私がその歴史と社会構造に存在したら…」という想像力が生まれます。

なぜ沖縄の若者たちは、地元と暴力から抜け出せないのか?/打越正行氏インタビュー - SYNODOS

社会学者の打越正行さんのインタビューを引用させていただきました。

『タイミングの社会学』には、読者に”別世界のビックリ話”として読ませないような工夫がたくさんあります。
その1つとして今回紹介するのが、副題にもある、ディティール(細部)をとらえることです。

Eジムのロッカーは塗装が剝がれつつあり、表面もデコボコになっている。入門したボクサーには、一人一個のロッカーが与えられ、そのなかにかれらは自分の僅かばかりの持ち物を入れる。あるボクサーのロッカーには、歯ブラシ、綿棒、バンテージ、マウスピース、ハンガーといった持ち物が入っている。さらに古新聞を使って、好きな女優の写真を貼り合わせて「内装」を施している。彼によれば、毎日、ロッカーを開けるたびに、その女優が微笑みかけてくれるのだと言う。

『タイミングの社会学: ディテールを書くエスノグラフィー
』p,108

共同生活をするボクサーにとってのわずかな「プライベート空間」がロッカーであるという箇所からの引用です。その場に居合わせたこともなく、会ったこともない人なのに、私はこの一連の内容からこの方のことをすごく身近で、(当たり前ですが)実際に生きている人だと感じます。

さらに、ビリヤード台ー中古品でマットが傷んでいるため球が思わぬ軌道を描くこともあるーやチェスのボードなどもあるが、これらで遊ぶこともそうである。

『タイミングの社会学』p,115

ただビリヤード台があるという記述ではなく、中古品でマットが傷んでいるため球が思わぬ軌道を描くこともあるビリヤード台であることまでが書かれていることで、ボクサーたちが遊んでいる光景がよりビビットに浮かんできます。
このディテールだけで、ビリヤード台が静的(static)なものから動的(dynamic)なものに昇華しています。

このディティールを「通じて」なにかを理解するのではなく、それ自体がなにかの理解である。ディティールをそぎ落として一般化するのではなく、ディティールに徹底的に浸ることで、引き続きマニラの貧困と構造的暴力をめぐる考察を進めていこう。

『タイミングの社会学』p,229

ディテールは話の根幹にはまったくならないようなことも多いです。しかし、ディテールがあることで私たちは親近感や想像力を掻き立てられ、本の向こうにいる人びととその世界を、別世界として見ることがもはやできないようになっていきます。

ディテールは個人的には、回収されない伏線でもあると思います。「ここってあの記述と繋がってない?」と断片(フラグメント)は、どこかで連なりを感じることがあるんです。

ここで紹介したのは氷山の一角で、ディティールはあちこちに散りばめられているので、ぜひ本を入手して堪能してください。

想像を絶することを想像する

本書では、現役のフィリピン国内チャンピオンであったにもかかわらず、提供される食事に不満があったために、キャンプを二度脱走した、あるボクサーのことが書かれています。それは、粗雑な飯が自らの貧困体験をフラッシュバックさせるからであることがわかっていきます。

食事とは、自分がどのように扱われているのかを最もわかりやすく浮かび上がらせるものである。

『タイミングの社会学』p,149

貧困世界とその経験は、私とっては想像を絶するものであり、それを「気持ちわかるよ」と安易に言うことは一方的な理解の暴力です。というか、わかりません。

しかし”「扱われ方」と食事”の関係性として考えると、少しは自分たちのことに置き換えて考えてみることもできます。
たとえば、私はデートで(人生で一度もしたことがないけど)、、夕食は高級ではないにしろ、何かしら特別感のある場所を選ぶべきだという考えを持っていますし、それで夕食がマックや牛丼屋だと怒る人がいることを理解できます。

槇原敬之とダウンタウンの名曲『チキンライス』の歌詞は、食事と貧困という関わりが表現されています。高校時代から知っていた曲でしたが、一歩だけこの曲からの受け取りも深くなっていきました。

今日はクリスマス 街はにぎやか お祭り騒ぎ
七面鳥はやっぱり照れる 俺はまだまだチキンライスでいいや
今ならなんだって注文できる 親の顔色を気にしてチキンライス
頼む事なんて今はしなくても良い 好きなものなんでもたのめるさ
酸っぱい湯気がたちこめる向こう 見えた笑顔が今も忘れられない


想像を絶することを想像することを諦めないパッションが『タイミングの社会学』にはあります。そしてそれは、「この人はこんな人です」というラベルを貼ることではありません。
”「人びと」ではなく、「人びとの対峙する世界」を知る”のが石岡先生のスタンスです。
ボクサーたちには貧困体験があるとだけ書くのではなく、それをボクシングキャンプが巧みに組み込んで、強力な成員を生み出していくプロセスもまた、そこでは考察されていきます。(ここが中々興味深いので、ぜひ読んでみてください、第三章です。)

個人のパーソナリティの奥にある集団の癖/傾向性が、その集団性の奥にある社会の構造や歴史的背景が、社会の構造や歴史的背景の奥にある世界全体すら時空を超えて貫いてくる力(とりわけ権力や暴力)が、一気に貫通していることがわかります。

そして、この世界全体を貫いてくる力として、『タイミングの社会学』がテーマ化したのが、「時間」への着目です。

というところで、長くなってしまうので一旦切り上げて次回にします。

このように本書は、これまでのフィールドワークの成果であると同時に、私自身の認識の形成を辿るビルドゥングスロマン(教養小説)のような性質を備えたものである。そこに表れているのは、フィールドについての記述であるだけでなく、フィールドとそれに対峙する私との関係史でもある。

『タイミングの社会学』p,15

最後に、私のように近現代フィリピン史やタガログ語を知らない人でも適宜、歴史的背景や言葉には解説がありますから、そこは心配しないでください。

最近配信されたばかりのインタビュー動画などもありますので、ぜひご覧になってください。それでは、また次回。

↓石岡先生のnote

最近公開されたばかりの、インタビュー動画

↓読んでもいいし読まなくても問題ないこのシリーズのno,0


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