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生きる意味って?

私たちは、生きている意味とか目的とか、あるいは、自分はどこに向かっているのか、というようなことを、時々考えるものです。私自身、還暦を過ぎ、友人たちの中から訃報が届くようになってきて、人生の終わりのことを思い巡らせることが増えてきました。今、流行している病のただ中で、やはり頭によぎることは自分の終わりのことです。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節

進化論の中に埋もれて

もともと、科学畑に生きてきて、自然淘汰、偶然の産物としての人類、という考え方に慣れ親しんでいたのですが、その割には、人間自身の生き方の中に見いだされる目的志向そのものが何から発生するのか、不思議に思っていました。偶然に今の自分が存在し、偶然に今の場所に生きていて、周囲にいて関わっているすべての人も偶然にそこにいるだけ。そして、良いことも悪いことも、今生きているときが過ぎたなら、一切は無になる、という考え方で、生きる目的などないんだ、というところから、なんとなく虚無感が支配していたものです。

そんなせいか、学生時代は科学的知識の追求にも意欲を失っていき、それこそ目的を失った暮らしに陥っていたように記憶します。卒業証書も、友人に持ってきてもらって受け取っておしまい、という程度。いったい、人生に目的はあるのか。目的はないのだ、とする科学に人生をゆだねるのか。ホントウにそれでいいのか。それで、さまざまな本を読んでいました。

あるとき、英語の追試を受けることになりました。理学部になぜ英語の詩の授業があるのか、それも私には不思議だったのですが、ともかく、成績は不合格、ということでの追試。その答案用紙に、最近読んだ本のタイトルを書け、という先生の言葉。それで、結構多くの本にタイトルを書き込んだのですが、英語の成績ではなく、それらの本の数で合格になった、ということもありました。

理学部生でも人の心がまず大事なのだ、と、少しだけ前進した時だったかもしれません。

生きる方向付け

聖書の言葉が心を打つようになったのは、目的も無く彷徨っているような自分の心に、明確に生きる指針を示してくれたからかもしれません。イエス・キリスト物語を見て、こんな人間がいるのか、というような衝撃感も、あったかと思います。「永遠の命を得るため」という、はっきりした目的志向のキリストの姿がここにも見られるとおりです。

明日何が起きるかすらもわからない私たち。聖書を読んでいて、ふと思ったのは、明日何が起きるのか、神様はあえて教えてくれないのだ、ということ。でも、神様がはっきりと教えてくれていることはあります。御子を信じる者は、永遠の命を得る、ということです。

目的もなく生きているのは、目的を持ってこの世界を造り、人間を造った神を知らなかったために過ぎず、目的のない科学、いや、道具に過ぎない科学に人生をゆだねようとすることが間違った生き方だった、という事に気づかされたのです。主人と道具とを取り違えたら、大変なこと。道具は道具として、正しい目的を知って道具を正しく使うなら、問題はなかったはずでした。

信じない、と思う心の奥にあったもの

ヨハネ福音書の終わりのほうに、トマスという弟子のエピソードが載っています。イエス・キリストが復活した日曜日の夕方、弟子たちが部屋にこもっていたそのただなかにキリストが現れるのですが、ちょうどトマスがそこにいない時でした。あとから、仲間たちからキリストの手の釘跡の傷、わき腹を槍に突き刺された傷跡の話を聞いて、彼らに叫び散らしてしまいます。

「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

トマスが言っている「信じない」には、キリストの復活を信じないということはもちろんあるのでしょうが、「お前たちの言っていることは信じない」という気持ちも強かったのではないか、と、このごろとみに思うのです。

この記事から一般に言われているのは、トマスは、自分で確かに見聞きしたことじゃなければ信じようとしない実証主義者だった、ということです。でも、この頃私は、トマスは人間不信に陥ってしまっていたのかもしれない、と思うようになってきたのです。もっと正確に言えば、イエス・キリストに見捨てられたような、そんな思いに囚われての叫びだったのかもしれない、と。「イエス・キリストは、なぜ自分には姿を現してくれなかったのか。なぜ、他の人だけみることができたのか」という、疎外感。「お前らばっかり、ずるい!」


事実かどうかを信じるより、人を信じたい

事実かどうかを「信じる」よりも、私たちは、将来のことや他者との関係のことで「信じる」事に、ずっと気持ちが入り込むものです。何よりも、自分が愛されていることを信じられる時、心は一番の平安を得るように、逆に、自分が愛されていることを信じられないときは、心はちょっとした風にも大きな波が立ってしまうかもしれない…

トマスのことを考えると、学生時代の自分の姿が思い浮かびます。そこで、イエス・キリストに出会ったのも、トマスと同じようなものでした。自分から進んで聖書を知ろうとか、教会に行こうとか、全く考えることすらしなかったのに、キリストのほうから来てくれた、としか言えない状況が進行していました。

実に神は、そのひとり子を賜るほどに、こんな自分を愛してくれている、と信じられることは、さいわいなことです。この気持ちの変革をきっかけに、今度は、周りの人たちから自分が愛されていることを信じられるようになっていく変革をとげます。何かと、世間には七人の敵がいる、みたいな考えに囚われて、仲間というよりも競争相手としか見られなかった自分が、今となっては、不思議と懐かしくも思います。

永遠の将来すらも信じられる第一歩は、自分が愛されていることを信じられるところから。それが、そう思い込みたいという主観的なものではなく、歴史にとどめられるイエス・キリストの生涯に基づくのですから、宇宙や分子生物学にロマンを感じていたころ以上に、今の自分の存在にロマンを感じるようになって、人生おもしろい、と、実に、思えるのです。

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。 それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。 トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。 イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書20章19節~29節)


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