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ヨハネ福音書ノート 「はじめにことばが... そして過越の祭が近づいた」

教会でヨハネ福音書を通読して学びました。

随所にある、とても大切なフレーズを、それ以前にいくつか学んだことはありますが、全体を通して学ぶのは、これがはじめて。ヨハネは、ほかの福音書が記していない独自の視点から、神の御子であるイエス・キリストを描いています。

イエス・キリストの時

それが、「はじめに」あった「ことば」。ある「時」人となった。バプテスマのヨハネの登場ではじまったその「ことば」についてのあかしは、「その翌日」のあかしに続き、さらにキリストが人々に直接触れていく日々を綴っていきます。ヨハネが直接見聞きした事柄だけを記しているように思われます。

マルコ以上に、厳選されたエピソードだけを克明に記しながら、そこで語られたイエス・キリストの言葉を、最も詳細に、時間の進行に最も厳密に従って記録しています。

たとえば、イエス・キリストが裁判を受けている場面。ペテロが拒否する場面とが、時間軸に沿って、両方が同時進行していることをヨハネはその通りに記しています。状況を想像しながら読むと、なかなかドラマティックです。ほかの福音書では、裁判の場面とペテロの拒否の場面とが、それぞれにまとめられているのです。ヨハネだけが、この同時進行を劇的に表現しています。

このヨハネが、イエス・キリストの「わたしの時」、「イエスの時」について語ります。そのために、「はじめ」からの時の移り変わりに注目しながら書き進めているのです。

そして、神殿で行われる定例の祭の中でも特に「ユダヤ人の祭である過越の祭」に重点が置かれています。イエス・キリストの当時から1500年前の「贖い」の出来事を記念して行われている祭です。それが、「時」の指標となっているようです。

一箇所、「ユダヤ人の祭」(5:1)と書くだけでそれが何の祭なのか明記していないところがありますが、おそらくそれも過越の祭だろうと考えられます。ヨハネが、時の区切りとして「過越の祭」を明記するにあたって、5章はその時の区切りとはなっていないために、あえて、単にユダヤ人の祭としか記さなかったのではないでしょうか。

2:13 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。
2:23 過越の祭の間、イエスがエルサレムに滞在しておられたとき、多くの人々は、その行われたしるしを見て、イエスの名を信じた。
5:1 こののち、ユダヤ人の祭があったので、イエスはエルサレムに上られた。
6:4 時に、ユダヤ人の祭である過越が間近になっていた。
11:55 さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、多くの人々は身をきよめるために、祭の前に、地方からエルサレムへ上った。
12:1 過越の祭の六日まえに、イエスはベタニヤに行かれた。そこは、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロのいた所である。
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
18:28 それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。
18:39 過越の時には、わたしがあなたがたのために、ひとりの人を許してやるのが、あなたがたのしきたりになっている。ついては、あなたがたは、このユダヤ人の王を許してもらいたいのか」。
19:14 その日は過越の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった。ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。

エルサレム神殿

もうひとつの視点は、「エルサレム神殿」にあるように見えます。ユダヤ人の中心は神殿であるはずでした。ユダヤ教も神殿を中心に行事が行われ、ヘロデによって拡張工事が行われていた神殿が、権威の象徴でもあったようです。それに携わる祭司たちらを中心にまとめて、ヨハネは「ユダヤ人」と福音書の中で呼んでいます。

ヨハネ福音書の記事の大部分は、エルサレム、ユダヤ地方での活動です。ガリラヤ地方での出来事は、カナの婚礼(2章1-11節)、役人の息子の癒し(4章43-54節)、五千人の食事(6章)、弟との会話(7章1-9節)と、復活後のガリラヤ湖での顕現(21章)。マタイがキリストの教え、マルコがキリストのみわざ、ルカがキリストの働きの場に注目していて、しかもガリラヤでの活動に焦点を当てて、全体の流れが似ているのとは大きく異なった視点からの記録となっています。

神殿としてのキリストご自身のからだ、受肉された神こそが、最も注視されなければなりません(ヨハネ2:21)。特に、この福音書が書かれたのはエルサレム神殿がすでに崩壊して20年経過していたころだと考えられます。神殿への注目は、真の神の宮を思い巡らせる意味があるはずです。

そして、神殿で行われる「祭」で、「過越しの祭」が特に注目されています。福音書の全体で、過越しの祭が行われることが、話の進行に区切りをつけているように見えます。それで、過越しの祭をキーワードにして、全体を区分することもできそうです。

以下の梗概は、その視点で作ったものです。

ヨハネが「はじめに」と書き出し、「言」である神の子、それはまさしく永遠の神に他ならないお方ですが、神の子が時の制約のある地上に肉体を得て来られたことを信じること、ただ一度の十字架の死による永遠の贖いを完成させたこのお方に信頼することによってのみ、人は真に神に生きることになること、それが永遠の命であることを、まとめました(→ヨハネ20:30-31)。それを詳細に学びます。

梗概

A. 1:1-2:12 はじめに (63vv)
B. 2:13-6:3 今すでに来ている時 (152vv)「ユダヤ人の過越の祭が近づいた」
C. 6:4-11:54 栄光を受ける時はまだ来ていない (317vv)「ユダヤ人の祭である過越が間近に」
D. 11:55-19:13 その時が来る (261vv)「ユダヤ人の過越の祭が近づいた」
E. 19:14-21:25 わたしの来る時まで (84vv)「その日は過越の準備の日であって」


A. はじめに 1:1-2:12 [はじめの過越しの祭りまで]


1.はじめに(1:1)
2.その翌日(1:29)
3.その翌日(1:35)
4.その翌日(1:43)
5.三日目に(2:1)
6.そののち(2:12)


B. 今すでに来ている時 2:13-5:47[はじめの過越しの祭からユダヤ人の祭まで]

7.ユダヤ人の過越しの祭①が近づいた(2:13)
8.過越の祭の間(2:23)
9.こののち(3:22)
10.イエスが、・・・知られたとき(4:1)
11.ふつかの後に(4:43)
12.この後、ユダヤ人の祭②があった(5:1)


C. 栄光を受ける時はまだ来ていない 6:1-11:54
 [三度目の過越しの祭から最後四度目の過越しの祭の前まで]

13.そののち(6:1)
14.時に、ユダヤ人の祭である過越③が間近になっていた(6:4)
15.夕方になったとき(6:16)
16.その翌日(6:22)
17.そののち(7:1);時に、ユダヤ人の仮庵の祭が近づいていた(7:2)
18.朝早く(8:2)
19.そのころ、エルサレムで宮きよめの祭が行われた。時は冬であった。(10:22)

D. その時が来る 11:55-19:13 [過越しの祭の前]

20.ユダヤ人の過越④が近づいた(11:55)
21.過越の祭④の六日まえに(12:1)
22.その翌日(12:12)
23.過越の祭④の前(13:1)
24.イエスがこれらのことを言われた後(13:21)
25.彼が出て行くと・・・今や人の子は栄光を受けた(13:31-16:33)
26.これらのことを語り終えると(17:1)
27.イエスはこれらのことを語り終えて(18:1)
28.時は夜明けであった(18:28)

E. わたしの来る時まで 19:14-21:25 [過越しの準備の日以降]

29.その日は過越④の準備の日であって、時は昼の十二時ころであった(19:14)
30.一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに(20:1)
31.その日、すなわち、一週の初めの日の夕方(20:19)
32.八日ののち(20:26)
33.そののち(21:1)

福音書の目的

ヨハネは、自身がこの福音書を書き表した目的を、はっきりと言い表しています。

「30 イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。 31 しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30.31)

この目的のために、厳選されたエピソードとして、イエス・キリストと個人的に接触した人々が交わしたことばと、キリストの教えの詳細が書きとどめられているのです。

それらのエピソード全体を通して貫いている軸が、時間。永遠の神がこの世に入り、ご自身を現しながら、時間を越えた視点を持ってこの世を見つめています。この永遠の神がイエス・キリストであることを伝えます。ご自身の命を自ら捨てることができるお方は、その時をも自ら定めて、まさにその時に成就させる力を持っておられるお方です。

永遠のお方が、人間に対して、一人々々に個別にかかわってくださっている記録が、ヨハネ福音書。個人に人格的にかかわって下さる神の記録です。

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