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重大な決心 ― 世界で最初の Christmas(2) ―

さて、少し話は戻ります。マリヤにとっては、人々の悪いうわ さの種となりそうなことがありました。それは、彼らはまだ「いいなづけ」の間柄だったということです。


当時、ユダヤ人社会では、婚約期間が1年続いたといいます―― 男は18歳、女は12歳半が、結婚最適年齢とされていたようです――。その期間が終わって婚礼の式。お祭りのような雰囲 気の中で人々が集まり、少年たちは遊びに駆け回り、少女たちは踊り歌い、そして夕方のにぎやかな食事の間をぬって、荘厳な儀式に臨みます。旧約聖書の中の「雅歌」からの言葉を交わし て式が進められたのかもしれませんね。

「どうか、あなたの口の口づけをもって、
 わたしに口づけしてください。
 あなたの愛はぶどう酒にまさり、
 あなたのにおい油は芳しく、
 あなたの名は注がれたにおい油のようです。
 それゆえ、おとめたちは
 あなたを愛するのです。
 あなたの後について、行かせてください。
 わたしたちは急いでまいりましょう。」(雅歌1章から)

結婚の契約が取り交わされると、祝宴が非常に陽気に、騒々し く再開されます。祝宴は7日間、時にはその倍続くのですが、 新夫婦は最初の日にその席を退出し、結婚は完了。

ヨセフとマリヤがいいなづけの間柄であった、ということは、 この婚礼がまだ済んでいなかった、という事でしょう。ただ当 時、婚約期間と結婚後の二人の立場や義務には近いものがあっ て、婚約期間中に生まれた子どもでも嫡出子と認められたよう ですが、逆に、婚約中の女が不貞を疑われたときは、審査され、 姦淫の罪を認められた婚約者は石打の死刑となるのでした。

ですから、マタイの福音書の第1章では、こう記されています。

「夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公になるこ とを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。」

自分のあずかり知らぬところで妊娠したマリヤを、どうしたも のか。思い巡らしたすえ、至った決心は「離縁」。けれども、そ こに神の御使いが現れ、夢の中で語ります。

「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎える がよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼 女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。 彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救うものとなるから である」。(マタイ1章から)

どのようにして、ヨセフがこの言葉を信じるに至ったのでしょ うか。詳細は何も記されていません。御告げを聞いて、そのま ますぐに素直に受け入れたのかもしれませんね。マリヤの常日 頃の生活のきよさが御使いの御告げを裏打ちするしるしとして、 ヨセフを納得させ、決心を支える要素となったということは、 想像に難くないものです。



今のわたしたちでも、夢見が良いの悪いの、ということが一般 にはありますが、ヨセフには、はっきりとしたメッセージとして 語られたのでした。

もし、事実はマリヤが不貞をなしていたのに、夢を信じて妻に 迎え入れたら、家名を傷つけるわけです。逆に、この御告げの 言葉が正しく、マリヤの懐妊が「聖なる霊」、すなわち神ご自 身によるものなのに、これを受け入れず離縁してしまったら、 神を拒否することになります。

これを信じるかどうかはヨセフにとって「かけ」だったのでし ょうか。それとも、何らかの確かなしるしがあったのでしょう か。それは、マリヤの内に見られるものだったろう、と思われ ます。神がマリヤの内に働きかけてしるしとしていたものを、 あまりに見なれていたためにヨセフは見過ごしていたかもしれ ません。それを彼は、御告げをきっかけにもう一度確認したわ けです。

          * * * 


マリヤの側に光を当てたこの間の事情は、ルカによる福音書1 章に詳しく書かれています。実は、ヨセフよりもマリヤのほう が極めて困難な立場に立たされることになるのです。結婚前に 妊娠して、不貞を働いたとされるなら、石打の刑で死刑になる のは、ほかならぬマリヤですから。

ちょっと長くなりますが、その部分を引用してみます。

御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめ でとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤは ひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、 思いめぐらしていた。

すると御使が言った、「恐れるな、マリ ヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あ なたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名 づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、とな えられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座を お与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配 は限りなく続くでしょう」。そこでマリヤは御使に言った、「ど うして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫があ りませんのに」。

御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、 いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ 出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。 あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊 の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、 なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、 「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成ります ように」。

そして御使は彼女から離れて行った。(ルカ1章より)

恐らく十代の前半だったマリヤが、家族因習の非常に強かった はずのユダヤ人社会の中で、いいなづけのヨセフの誤解も覚悟 の上、あるいは離縁を迫られる可能性もある――実際、ヨセフ は一時その決心をした――のに、自分を「はしため」として御 使の言葉を受け入れたのでした。

最後のマリヤの決断の言葉には、母となるものの強さがあるの でしょうか。それとも、強制的に言われたことにたいして何も 考えないで、盲目的に「はい、はい」と返事をしてしまっただ けでしょうか。

ここでは、「主のはしため(奴隷)」と自覚し て、自分を神のものとして位置付けているマリヤ自身の言葉に 注目したいところです。「神には何でもできないことはない」 という身使いの言葉は、男性不在でも子供が生まれ得る、老年 になったものからも子どもが生まれたじゃないか(マリヤの親 戚で起こったこと)、というだけではなく、これから起こるで あろうすべての問題をも神は解決する事ができる、という意味でしょうね。その神を、自分の「主人」と定めて、この主がなそうとしておられることすべてが、自分の身に起こることを「主のはしため」として受け入れたのでした。

昔は早熟だったのかな~、と思ってうなってしまいます。学校と塾と、机の上の勉強に終始し、画像の中のゲームが生きてい る世界だったら、「はしため」の実際がどういうものかをからだで知っていたマリヤの心中を推し量るのは難しい、、、かもですよね。ぼく自身も、想像しにくいところです。

では、重大な決心をしなければならない局面に立たされたとき、重大な責任を負わなければならなくなったとき、今の子どもでもその決断をすることができるでしょうか? 

できる、とぼくは信じます。成長させてくださるのは、神さまですから。


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