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キリストの終末預言(2) 将来に対する弟子たちの不安

マタイ24章1-3節

どんなきっかけで、「世の終わり」などということに関心を持つことになるでしょうか。

イエス・キリストの弟子たちは、すぐに手に入るかもしれない栄光を夢見つつ、ふと発した言葉に、思いがけない返事を受けて、慌てて、これからどうなるの、と、不安になったのがきっかけだったようです。

宗教経典で、世の初めと歴史、それに世の終わりを具体的に書いているものは、そう多くはないかもしれません。聖書は、世の始めから終わりまでを丁寧に伝えています。預言が語られるまでの経緯も含めて、過去から未来までの歴史探訪することが、預言を学ぶ醍醐味です。

弟子たちの心はずんだ夢が砕かれる?

弟子たちは、イエス・キリストとのエルサレムにやってきて三日間、毎日を堪能していたでしょう。

日曜日、祭に集まってきていた大群衆に大喜びで迎えられ、月曜日には宗教的権威の象徴、宮の庭で商売している人々をイエス・キリストが蹴散らすのを見て、このユダヤ社会を支配し、全世界をもまもなく手中に入れる、と夢を膨らませていたかもしれません。

火曜日。つい、イエス・キリストに弟子たちは、宮を指し示しながら感嘆の声を上げてしまいます。

そして、彼らが期待していたのとは正反対の言葉を、イエス・キリストから聞くことになるのでした。感嘆の声を上げた対象、壮大な神殿が、木っ端みじんになる、という予告です。イエス・キリストの死と復活の予告には、「心を痛めた」(マタイ17:22,23)のでしたが、それ以上に詳しく聞こうとはしなかったのとは対照的に、弟子たちは、いつそんなことが起こるのか、と尋ねてきます。

イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」。(マタイによる福音書24章1-2節)


ひそかに尋ねる弟子たち

荘厳な神殿が、完全に崩壊する時が来る、というイエス・キリストの言葉に、弟子たちは驚きます(マタイ24:1‐2)。そしてその夜に4人の弟子たちが来て質問をしたのでした(マタイ24:3、マルコ13:3)。

おそらく、エルサレムに来てから夜のひと時をオリーブ山過ごすことが日課になっていたのでしょう。過越しの祭の直前で、エルサレム周辺はどこもかしこも大勢の巡礼者でにぎわっている中、ここだけがひっそりとした空間だったのかもしれません。

エルサレム神殿が対岸にある、谷を隔てた位置にオリーブ山。夜になっても、たいまつの明かりが神殿を照らし出しているのを見ながらだったでしょう。

またオリブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとにきて言った、「どうぞお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終りには、どんな前兆がありますか」。(マタイによる福音書24章3節)


先に、イエス・キリストが語ったのは、神殿崩壊に関する予告だけでした。でも、弟子たちの質問は三つです。

(1)いつそのようなことが起きるのですか
(2)あなたが来られるときの前兆は何ですか
(3)世の終わりの前兆は何ですか

弟子たちは、なぜ、この三つの質問をしたのでしょうか。しかも、ひっそりと。

彼らは、これから時代が変わるほどの変化が来ることを、イエス・キリストの言葉から感じ取ったのでしょう。旧約預言にある、とてつもない変化、です。

これらの質問のもとは、BC6世紀に書かれたダニエル預言書9:26-27にある、油注がれた人が「断たれ」、民は「聖所とを滅ぼす」という記事だったと思われます。

25それゆえ、エルサレムを建て直せという命令が出てから、メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六十二週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路とをもって、建て直されるでしょう。26その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。 27彼は一週の間多くの者と、堅く契約を結ぶでしょう。そして彼はその週の半ばに、犠牲と供え物とを廃するでしょう。また荒す者が憎むべき者の翼に乗って来るでしょう。こうしてついにその定まった終りが、その荒す者の上に注がれるのです」。(ダニエル9章)

神殿が崩壊する、と聞いて、弟子たちは「メシヤ(キリスト)が断たれ」「聖所とを滅ぼす」後に再び来て王となると考えたのだと思われます。そして、「その終わり」が世の終わりのことだ、と。それはまさに地上の「天国」の成就の時のはずです。それはいつ?前兆は何?

これまで、キリスト受難の予告も何度も聞きながら、この期に及んでようやく、その受難予告に目を向けたとも言えます。翌日には、さらにイエス・キリストは「ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される」と弟子たちに語って、緊張は最高潮にいたるのですが。

聖書が記す「世の終わり」は、地球の破滅でも人類の滅亡でもなく、今の時代が終わって新しい時代を迎えることです。新しい時代が、「天国」の時代です。そこに行きつく前に起こる事柄の預言の一つが、ここのキリスト預言です。

正しく将来を見据えるために

エルサレムにやってきて、弟子たちは、状況に踊らされます。はじめは、すぐにでもイエス・キリストが王位について世界を支配する、と夢見ていました。荘厳な神殿も、間もなく、自分たちが権威ある座から支配することになる、と、有頂天になっていたようです。

まるでそれをたしなめられるかのような神殿崩壊の予告。怒られたとは思わなかったでしょうが、弟子たちはすぐそれに問い返すこともできずに、後から質問をしにやってきます。彼らは、イエス・キリストが将来を知ることができる預言者だと思っていたでしょう。

弟子たちの夢を、新しい時代を迎える正しい方向へと修正するための教えがはじまります。それが、不安を払拭してくれるものです。十字架にかかる前日の、最後の晩餐の時の言葉も印象深く迫ってきます

わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(ヨハネによる福音書14章27節)


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