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キリストの終末預言(7) ―譬から学びなさい―

マタイ24:32-41

天に帰る。死んでから、というのではなく、生きているときに。生きながらにして天にあげられる時が来る、という教えが、聖書にあるように思います。それがどう実現するのか。

24章から始まったイエス・キリストの終末預言は、「世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難」(マタイによる福音書 24章21節)を知らせてきていました。

大患難があるという預言は、イエス・キリストの弟子たちにどういう意味があるのか。弟子も患難を味わう事になるのか、違うのか。

32節になって、ここでトーンが変わるように見えます。弟子たちに対する第二の勧告が始まるのです。「学びなさい」「よく聞いておきなさい」。キリストの弟子として、患難をどう迎えるのか、天にあげられるというのであればその備えはどうすべきか、の教えです。

いちじくの譬

イスラエル地方にある樹木は、大多数が常緑樹だそうです。季節の変わり目が見てわかる樹木が、いちじく。いちじくの譬は、季節の移り変わりをあらわすものです。

「そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」

大患難をくぐり抜けることになった「弟子たち」にとっては、それらは、「人の子が戸口まで近づいている」しるしそのものだ、ということです。大患難は、天地が滅び、世が改まることが間近だ、ということのしるし。この教えは、大患難の中にある人にとっては「福音」と呼べるものかもしれません。

ただ、そんなひどい痛い目に合わないで、それが過ぎ去った、改まった世に直接入りたい、と願うのは、自己チュウな自分勝手な思いでしょうか。もし直接あらたまった世に入れるなら、そのほうがもっと良い知らせ、だと思えるのですが。

すべての人への教え

「すべてこれらのことを見たならば」と、その場で聞いていた数人の弟子たちが、そこに居合わせると想定されての預言だったのでしょうか。

「生みの苦しみの初め」(8節) と言われる事柄だけでなく、荒らす憎むべき者が聖なる場所に立つのを見るとき(15節) はどうなのでしょう? 今まで起こったこともない大きな患難(21節) を、すべて、その場でイエス・キリストの話を聞いている弟子たちも経験することになる、ということだったのでしょうか?

マルコの終末預言の最後に語られた言葉が、ヒントになるかもしれません。

目をさましていなさい。わたしがあなたがたに言うこの言葉は、すべての人々に言うのである。
マルコによる福音書13章37節

いつ、この預言が成就することになるのかわかりませんが、その時までの「すべての人」、弟子だけではない人も含めて、がこの預言を知らなければならない、という意図で語られたようです。そのすべての人の中から、ちょうどその「時」に遭遇する人が、すべてこれらのことを見ることになる。「いちじくの譬」を、マルコもしっかり書き留めています(マルコ13:28‐31)。

でも、マルコの記録と重なる部分はマタイ24章36節まで。それより後41節まではマルコは書いていません。マルコが記録しなかった37‐41節は、特に弟子たちへのメッセージなのだろう、と推測されるのです。弟子たちへの特別なメッセージとはなんでしょうか。


弟子たちへの教え

そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
マタイによる福音書24章39‐41節

マタイの記録をここまで読んでくると、まず大きな患難があって、そのあとでこの「洪水」と「取り去られ」るとあるのですから、この預言箇所が時間順に起こるように語られているなら、弟子たちもまず患難を通り抜け、それから最後の時となる「天国」の時代を迎えるはずです。

ただし、終末預言を記すルカは、この記事を違う順番で書いています。それはどういうことなのでしょうか。

ルカがこのオリーブ山での終末預言を記録しているのが21章です。ところが、洪水とそれに続く「取り去られ」る話は、17章の時点ですでに語られていたと記録するのです。イエス・キリストと弟子の一行がガリラヤからエルサレムに向けて旅をしている途上での話でした。

先に語られていたから、その預言も先に起こることだ、という保証はないのですが、可能性はあります。少なくとも、マタイの記述の順番通りの時系列で起こるに違いない、と考える必要はないだろうと思えるのです。

このように、オリーブ山の預言では、すべての人への教えと弟子たちへの特別な教えを、区別して読み取ることができるように思います。マタイの記録するオリーブ山終末預言の教えの後半は、弟子に向けて、あるいは、弟子だと自認する人も含めた人たちに向けて ――つまり私も含めて―― 語られていきます。

そして、ここから書かれる出来事については、ここまで言われてきた事柄とは別に、それこそいつ起こるかわからない出来事として、弟子たちに向けて語られているように考えられるのです。

マタイによる福音書24:32-41節

いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。

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