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ピースメーカー~世界が神の子を認める~

マタイ5:9

太平洋。名前の意味を考えたことはなかったけれど、「平和な海」。世界一周航海したマゼランが、大西洋からマゼラン海峡を通って抜け出たところが、暴風のない穏やかな海だったから、名づけられたそうです。

天下太平。世の中に暴風がない、争いごとがない。戦国時代の後の江戸時代は、鎖国が保たれた島国で戦争のない国を長期間実現した、世界でも珍しい時代なのでしょう。太平洋に面した戦争のなかった国。

それが輸出され、世界規模で実現するように働きかけることは、できるのでしょうか。

実現しないかもしれないけれどそれに向けて努力する、で終わらない、本当にそれが出来上がることを目指しているのは、神さまご自身なのです。

平和をつくり出す人たちは、
さいわいである、彼らは
神の子と呼ばれるであろう。

自国の平和すら実現していない時に

イエス・キリストが山上の説教をしていた時、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にあって、独立運動を続けているグループがありました。そこでこの言葉を聞いたら、イスラエルの平和を実現することだ、と思ったでしょうね。

弟子たちは、イエス・キリストがイスラエルの王となることを確信していました。旧約聖書にしるされている預言の数々に一致したイエスの行う奇跡が、その「しるし」としか考えられなかったからです。

その預言は、イスラエルだけに平和をもたらして終わるのではなく、すべての民族にまで溢れていく事を約束していました。

そのためにも、まず、イスラエルの平和の実現を!イスラエルの独立を!と、弟子たちはいっさいを捨ててイエス・キリストに従っていたのです。

イエス・キリストが王になったら、もう、世界は大変革!イエスに従っていく自分たちはスーパーマン軍団になって、どんな軍隊でも木っ端みじんにしてしまう、と言う感じだったでしょうか。

でも、キリストの教えは、はじめから異質的でした。山上の説教だけでも、驚くような事が次々と語られます。

「兄弟」に対して怒ったり、愚か者とか馬鹿とか言うことがたしなめられ、誰かと争いごとがあるなら宗教行事を差し置いてでも和解のために努力しろ、と。姦淫は律法では死刑だったのですが、「情欲を抱いて女を見るものは姦淫したのだ」とも。

極めつけは、敵を愛し、迫害する者のために祈れ、天の父が完全な方であるように、あなたがたも完全になりなさい、と言う教えでしょう。

それなら確かに「神の子」と呼ばれるのでしょう。

でも、そんなこと無理だ、と思うのが、普通だろうと思います。

心の貧しい者から平和をつくる者に

もちろん、この教え、いちばん最初に語られたものではありません。7番目。

これまでの教えを振り返ると、、、

修行して、この一つ一つを身につけよう、としたら、ひとつだけでも10年かかるかも、と思ってしまいます。80歳になって、八つ身につくかどうか。でも、普通にこの世で暮らしながらでも「天国」の中に生きることを可能にしてくれたのがイエス・キリストで、それが私にとっての福音でした。

「平和」は、ギリシャ語で「エイレーネ―」。日本語だと「平安」にも訳されています。天国は平和で、平安で満ちている、というところでしょうが、弟子たち自身は、それを得ていたのでしょうか。

マタイの福音書の中で、弟子たちの派遣にあたって、何をすべきか、という教えがまとめられているところがあります。

行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。 病人をいやし、死人をよみがえらせ、重い皮膚病にかかった人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。 その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。 もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。
マタイによる福音書10章7~8、11~13節

とても不思議なことに、弟子たち自身が出会った人たちのためにすることは、「天国が近づいた」と伝え、それを実証するように病をいやし、あとは、平安を祈ってあげること。「平安を受けるにふさわしい家」には、祈った通りに平安が来る。ふさわしくなければ、弟子たちに「帰って来る」。

自分が空っぽで、キリストからもらったものを、右から左へ。告げて祈るだけ。それが、平和をつくる方法。

相手が平安を受け取るかどうか、は、相手次第。

そんなんで、いいのかな~、と思ってしまいますが… 実際に平安を得るのは、平安を与えてくれる神を心から信じられるかどうかにかかっている、ということでした。

キリストの平和・平安

最後の晩餐の時に、イエス・キリストが弟子たちに向けて語られた言葉。

「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」
ヨハネによる福音書14章27節

病気があれば、それが癒され、トラブルがあれば、それが解決されるとき、太平、太平、となる、のが普通です。

2千年前、弟子たちが派遣された時、キリストが行ったような奇跡を弟子たちもすることができました。それが、キリストの弟子の証拠だったわけです。弟子たちが書き記した福音書や手紙の数々が、ホントウにキリストからのものだ、と信頼されるためでした。

それで、弟子たちは「神の子どもたち」だと認められたのでしょう。

約束された救い主、キリストへの信頼が心にある時、心は平安、太平。どうしよ、どうしよ、と言う出来事が起きて心が動転しても、キリストが共にいる事を思い起こしたら、あ~大丈夫、と思える。

目には見えなくても、天国の中に住んでいることが、平和の源泉。でも、それがいつか目に見える天国が出来上がる、というのが、イエス・キリストの預言なのです。

言葉だけに終わらない、平和をもたらす神が、共におられるか。まず、個人的な神とのつながりが、問われるところ。その接点は、ただ、信じるということ。

「天国は近づいた」と言うことが、目に見えない天国ではなく、目に見えるように完成したら、どんな世界になるか!! それを楽しみにしながら、今の天国を過ごしていきます。

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