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はじロー(30) 神からの贈り物に満ちあふれる人生

 はじめて読む ローマ人への手紙5章14b-15節

神からの贈り物に満ちあふれる人生

死者を生かす神を信じた。それがアブラハムの信仰でした。

その同じ神、キリストをよみがえらせた神を信じることで、私たちの死に体も生かされる。しかも、一人の人イエス・キリストの影響力は、アダムの比ではない、とパウロは続けています。

その一つ目は、恵みの賜物は私たちの人生においていのちが「満ちあふれる」ことです。

アダムの場合は、アダム一人によって死がすべての人を支配するようになったのでした。ですから、イエス・キリストによっていのちが与えられるのであれば、いのちが支配することになる、というだけでも十分だったでしょう。

それが、そのいのちは、ただ「与えられた」と言うにとどまらず、「満ちあふれる」と言われるようなものなのです。

恵みの賜物としてのいのちが「満ちあふれる」とは、「私」が個人で受けた恵みは「私」だけにとどまらずにさらに外にあふれ出ていく、ということなのでしょう。自分一人で生きることが完結するのではなく、他人との間にいのちのやり取りがあるかのような言葉です。

アダムの違反によって、すべてこの世に生まれてくる人間は、神と無関係な「死に体」として一人一人が生きるようになってしまっていました。死が支配する人生です。どんなに頑張っても、からだの死と共にこの世から去る時に、何も自分に残るものはなくなるのです。しかも、終わりの時には神の怒りが一人ひとりが、その限りある人生を強いられたまま、自分ではどうしようもなかったのでした。

その「死に体」とは、神と断絶している状態であり、自分からは神に対して動くことができなかった状態でした。霊である神の存在そのものを全く知りえず、自然界に反映される神のすばらしさは目に見えるものだけを不完全にしか受け取ることができなかったのです。自然の雄大さを見ても、それを創造した神の大きさを思い描くことはできない人間です。

そこに、神の恵みが与えられます。後ろ向きになっている人に対して、後ろから声をかけるのではなく、目に見える姿で目の前まで出ていって、前から声をかけてくれた。自分で動いて後ろを振り向くことすらできない者には、そうでもしてもらわなかったら、絶対に面と向かうことはできません。それが、人間となって生まれてくれた神、イエス・キリストです。

死に体になっている人間がいのちを得られるように、ご自分のいのちをささげてくれた。そのいのちは、自分ひとりが生きるだけにとどまらず、他人と共に生きること、何よりも、神と共に生きることを可能にするいのちだったのです。

ローマ人への手紙5章14b-15節

アダムは来たるべき方のひな型です。しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。

(新改訳2017)


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