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キリストの終末預言 (6) ホントウの救い主、って。。。?

マタイ24章23-31節

世の救い主、と呼ばれる人とは、どんな人なのか。それは私の救い主でもあるはずだけれど、どれが本当の救い主なのか。そもそも、本当の救い主はいるのか。

困難のただ中にある時、助けの手を差し伸べてくれる人があれば、それにすがるのは自然の成り行き。その人が本当に善意でしてくれているのかどうか、その時には考える余裕もないままに。「弟子」にとっても同じで、救いの手が差し伸べられるとき、「神の助け」と思ってそれにすがってしまうだろうと思います。

はっきりと「偽物がやってくる」と教えられているのに、それを聞き逃していたら、全く見分けることもできないままに流されて行ってしまう、というのがここからの教えです。


預言者で神の御子

イエス・キリストの預言は、「神の言葉を預かった」ものであると共に、神ご自身の言葉そのもの、という面があります。

その言葉は本物か。その記録は本物か。

それで、イエスの神性をマタイは状況証拠をあげるようにしながら語ります。

まず、山上の説教を聞いた人々が驚いたこと。イエスが「権威ある者のように、教えられたから」(マタイ7:29)でした。

絶対的な他者から聞いたことを伝えるスタイルが預言者です。つまり、神から聞いたことをその通りに伝えるわけです。預言書の中に「主は言われる」というフレーズが頻繁に出てくる通りです。

そのうえ、当時の「教師」たちは、先祖教師の言い伝えを権威付けに常に引用して語っていたのです。

ところが、イエスは、ご自身が事を定める権威があるかのような語り方をしました。「わたしはあなたがたに言う」(マタイ5:22等)などと、預言者は、そして教師たちは絶対に言うことはできません。

サドカイ人が復活はありえないと主張する根拠のような議論も、簡単に論破します。あなたがたは聖書も神の力も知らない、復活の時には人は天使のようなもので結婚というものもない、と、まるで復活の時を見てきたかのような言い方をするのです(マタイ22:23-30)。

宗教家たちとの論争で最後のものが救い主「キリスト」の永遠性に関わる聖書箇所の解釈。パリサイ人たちは、よく知っているはずのキリストに関する預言を、突き詰めて問われた時、答えることができませんでした。彼らは、キリストはダビデの子孫であって、神のような永遠の存在だとは考えもしなかったのです(マタイ22:41-46)。

イエスは神の御子。永遠の存在。

このイエス・キリストが、世の終わりの前兆について語り、そして「荒らす憎むべき者」について語ったのでした。さらに、真のキリストの再臨についても言及します。そこにいる「弟子」、神の民イスラエルが、その時が来たときに正しい判断をすることができるように、です。


大患難の時に現れる偽キリスト

大患難時代にイスラエルは偉大な指導者に出会うことになる、と旧約聖書のダニエル預言からうかがい知れることです。

最初はその人物は世界と契約を結んだ平和の王として現れます。ところが途中で変貌し、「荒らす憎むべき者」となり、自らを神として一切を支配しようとする、とキリストが示しているのです。

この人物を救世主として信じ切っていたら、イスラエルの絶望ははかり知れません。

さらに、「偽キリスト」「偽預言者」がまたぞろ現れる、というのです。至福の時がようやく来た、と思いきや、全く裏切られ、しかも戦いがあり、避難生活を余儀なくされる状況になります。民族絶滅に直面する失望のさなか、助けが現れたとなったらそれを信じてついていってしまうでしょうか。

しかし、偽キリストに従って行く末に、本当の救いはあるはずがありません。

失敗の歴史に学ぶ

旧約時代、イスラエルがエジプトから脱出できたとき、モーセが神の律法を受け取るべくシナイ山にこもります。ところがあまりに長く山から降りてこないため、イスラエルの民は、モーセは死んだのだ、自分たちにできることをしよう、として、金の偶像神を作ってしまいました。

「これが私たちをエジプトから救い、先だって導いてくれる神だ」(出エジプト32:1-4)。

天の神の存在は信じてはいたのでしょう。でも、モーセを待っていることができず、自分たちの思いのままに、できることをしようとしてみたのです。神は、彼らのそうした努力を認めてくれたのでしょうか。

結局のところ、神への信頼の不足と共に、神の御言葉を聞いていながらそれを正しく受け止めていなかった彼らは、神の怒りを買うことになります。正しい知識、神の義を知らないままに自分勝手な努力をすることは、実は危険なことなのです。

新約時代、ガラテヤの諸教会が直面した危険は、違った福音に陥ってしまったことでした。

イエス・キリストの福音をパウロから聞いて信じた彼らは、この世の悪から救われて、自由を享受して歩み始めていたはずでした。ところがそこに、ユダヤ教の伝統に基づいた教えが入ってきます。彼らもなじんでいたユダヤ人の古くからの習慣に、簡単に流されてしまったのです。

伝統の権威というものは、私たちに大きな影響を及ぼすものです。伝統に面するとき、その社会の中で生きていくうえで他に選択肢はないかのように思えてしまうからです。ガラテヤの人びとも、そうして、神の真理から離れてしまいました。

神の民がどのような危険に直面してきたか、私たちはその歴史を学ぶことが大切です。道を誤り、失敗した記録によって、私たちは同じ過ちを繰り返さないように、神は警告を与えてくれています。「その時には、世の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような大きな患難が起るからである。」

歴史に記された神の真理を学んで、この先に現れるとされる偽キリストに対しても警戒することができるのです。

真のキリストをはっきりと知って、聖書に教えられている預言を正しく学ぶなら、終末に再び現れると預言されているキリストを、あまりに長くやってこないからと言って自分勝手な救い主を祭り上げたりせず、教えに従いつつ、期待をもって待ち望むことができます。

私たちは、人間としての自分の弱さを自覚すべきでしょう。真実なものを知らないままでいたら、たやすく偽物の流れの中に沈んでしまう者なのです。

キリストが最初に世に来られた時、ベツレヘムで産まれることも、十字架にかかって死なれることが人の罪を負って贖うためであったことも、預言の言葉に記されている通りでした。その預言がさらに伝えることは、 キリストが再び天から来られ、すべての人がそれを見る!

ありえない!でも、それをするのが、神の子です。

マタイによる福音書24章23-31節

そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。
にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。
見よ、あなたがたに前もって言っておく。
だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。
死体のあるところには、はげたかが集まるものである。
しかし、その時に起る患難の後、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。
そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。


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